民主主義の限界





民主主義の問題点は、社会システムとして見た場合人々の要望や欲求を反映するという面では非常に上手く出来ているものの、そのシステムの中に腹をくくって責任を取る仕組みがビルトインされていないところにある。有権者は選挙で選んだ責任を問われることはない。選挙で選ばれた代議員も、責任を取るとしても議席を失う以上のことはない「有限責任」である。

よく不祥事で辞任する議員がいるが、まさにそれが如実に示している。個人資産を楯に、民事で損害賠償を求められることもない。そしてよく「禊」と言われるが、次の選挙でまた当選すれば、何事もなかったような顔ができる。民主主義とは、責任を取ろうにも誰も責任を取れないようにできている政治システムなのだ。長らくこの事実が問題にされなかったのには理由がある。

民主主義が英国のチャーチル首相が語ったように「まだマシなシステム」として機能したのは、民主主義のが政治システムとして取り入れられた当初は、その有権者はまだ階級制度が残っている社会で育った人達であったからだ。階級制度とは、資産を持ち社会的責任を負っている層と、資産も責任も持たない層とが一つの社会を形成するのではなく、同じ国や地域の中で制度的に棲み分けるシステムである。

欧米の先進国では19世紀の半ばから実験的に普通選挙が行われてきたが、これが定着したのは20世紀初頭である。1918年にイギリスで男子普通選挙、1919年にドイツで男女普通選挙が行われ、19世紀末から男子普通選挙が行われていた米国では、1920年に女性参政権も認められた。日本においても大正デモクラシーの流れから1925年に普通選挙法が施行され、男子普通選挙が実現している。

当然有責任階級に育った人達は、自分の責任に於て判断し、自分の責任に於て行動するように教育されており、そのような意識がしっかり身に付いている。民主主義の象徴と言える普通選挙が定着し出した頃は、議員・政治家の多くは有責任階級の出身であり、制度として責任を担保する仕組みがなくても、いわばボランタリーに責任を取る習慣がついており、肚をくくって政治を行えたわけである。

しかし民主主義の世の中が続くと、階級のないフラットな社会になってから育った人がほとんどになってしまう。こうなると「悪貨は良貨を駆逐する」で、自主的に責任を取る志のある人は本当に少数となる。自立・自己責任で行動できるそういうタイプの人材は企業家精神の持ち主であり、実業家としても極めて有能であり、そういう人材が政治の道を選ぶ可能性はさらに低くなる。

日本の場合、「40年体制」と呼ばれるように、官僚機構と軍隊は戦争前の段階ですでに成り上がりたい無産者の牛耳る組織となっていた。野中先生の名著「失敗の本質」が説くように、この無責任さが安易に戦争を始める一方、誰も戦争をやめることができなくなった最大の理由である。それでも1960年代ぐらいまでは、まだ育ちのいい政治家がいて政治の優位性が保たれていたが、高度成長の成果が全国に広がった1970年代頃からは、政治もまた責任を取らない人達の巣窟となっていった。

ここに、政官一体のバラ撒きマシンが成立する。この時代、日本列島改造論で全国にバラ撒き・ハコモノ行政を展開した田中角栄首相がもてはやされたことが、一つのメルクマールとなろう。このように民主主義は、階級社会の残渣が残っており有責任階級のマインドを持った政治家がいるならば上手く機能するが、フラットな社会になって無責任育ちの人が平然と政治家になると、誰も責任をとらない超無責任システムになってしまう。ここが民主主義の限界であり問題なのだ。

昨今の先進国各国の状況は、どの国も多かれ少なかれこのような民主主義の限界を露呈していることに由来する。バラ撒きをエサにしたポピュリズムが蔓延する一方で、民衆は有言実行で骨のある強力な権力者を期待する。さすがに有権者もバカではないので、バラ撒きに期待する気持ちもあるが、誰も何も決めない状況には嫌気がさしているのだろう。強力な権力があっても、外交と防衛だけの小さな政府なら、国民の生活には影響はない。やはり民主主義の大きな政府は、産業社会特有のものなのだ。情報社会では、行政はAI化して小さい政府を目指すべきなのだ。


(19/04/12)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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