一神教とテロ






このところヴィーガンの話題というと、グローバルなレベルでテロリスト化しているというニュースが多い。彼等の特徴は、自分の主義主張だけが正しく、自分と意見の異なるものは抹殺してもいいというところにある。別に、肉を喰おうが喰うまいか、どちらの意見であっても、自分の意見を無理に相手に押し付けて菜食主義者に肉を食わせたり、実は肉を喰いたいけどの我慢している菜食主義者の目の前でこれ見よがしに食ったりしなければ、それぞれ自分の好きに生きればいいだけのことである。

動物は殺していけないのに、人間は殺してもいいというのは、ある意味意志を持つモノの意志を極めて重視していることを意味する。つまり、人としての生き方が間違っていて許せないから抹殺してもいいのだという論理である。これは、人間という一つの括りではなく、人間の中でも「正しい神を信じる者」と「邪悪な神を信じる者」との間で、「敵」の存在自体を否定してしまう「一神教の宗教」と同じような教義である。

このような「テロ予備軍」はいろいろなところで見られる。グリンピースのような自然保護団体にもそういう傾向があり、中にはシーシェパードのようにモノホンのテロリスト認定を受けてしまった連中もいる。フェミニストの中にも、フェミニストの敵には何をしてもか許されるという考えの人が目立ってきた。人権主義者の中にも、人権の敵に関しては人権を認めず差別してもいいという、ゆがんだ考えを持った人が多い。

これらの「主義」には共通性がある。ヴィーガンも、自然保護運動も、フェミニズムも人権主義も、そのイデオロギーはみな西欧から生まれてきたものだ。西欧とは、すなわち一神教であるキリスト教文化圏である。キリスト教のような一神教には、邪教を信じる異教徒は人間ではないという発想がある。邪教とは、人間に役立つ家畜以下の存在であるという発想から、邪教徒は人間ではないから殺してもいいとなり、さらには邪な神すなわち悪魔を信じているのだから、この世から抹殺すべきであるとう結論になる。

一神教の中には、このような信者と非信者を差別的に扱う発想がビルトインされている。だからこそ十字軍に代表されるように、宗教戦争を仕掛けて「異教徒を成敗する」という発想になる。アブラハム宗教と呼ばれるように、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は基本的な教義としては連続性がある。だからこそ、新左翼名物の内ゲバよろしく、近親憎悪で最も許せない相手となってしまう。

長年ヨーロッパではユダヤ人に対する差別が行われてきたが、そのベースはユダヤ教の持つ選民思想の強烈な排他性への裏返しであり、ユダヤ教対キリスト教の宗教戦争という一面があることを忘れてはならない。一方でキリスト教対イスラム教の対立は、現代でも中東を初めとし、多くの戦争や地域紛争の原因となっている。これもキリスト教側が十字軍でトルコ占領下にあった東ヨーロッパのイスラム地域に攻め込み、失地奪回を図ったことに遠因を求めることができる。

その一方で、一神教以外の宗教の信者に対しては、一層過酷な差別を行った。スペインの南米への侵略が典型的である。インカ帝国などの先住民に対して行ったように、相手が邪教の異教徒であるならば、略奪しようが殺そうがやり放題で許される。スペイン・ポルトガルの植民地侵略のバックには、異教徒にキリスト教を布教することを目指したローマ法王の威光が付いていたことを忘れてはならない。

アメリカの人種差別団体として知られる「KKK」も、元をたどれば「プロテスタントのアングロ・サクソン人など北方系の白人のみがアダムの子孫であり、唯一魂を持つ、神による選ばれし民として、他の人種から優先され隔離されるべきである」と主張するWASP至上主義から生まれたものである。そういう意味では、現代のアメリカの白人至上主義者の多くが、キリスト教原理主義と密接に結びついていることもうなづける。

左翼やリベラルも意見の多様性を許さず、自分の意見だけが正当であり、違う意見を持った人間の人権を認めない傾向が強い。日本の左翼政党やリベラル系文化人などが典型的だが、日本に限らず世界的にこの傾向は見られる。これもまた、社会主義、共産主義がもともとヨーロッパのキリスト教文化圏から生まれたものであることを考えれば、容易に納得できる。

旧ソ連など共産党は政権を取ると宗教を禁止したが、社会主義・共産主義のイデオロギー自体が変形した一神教であることを理解すれば、これは至って当然の対応であるといえる。そういう意味では、一神教の信者である以上「真の意味での信教の自由」すなわち多様な宗教の並存はありえない。個人レベルでの信心の深さの違いという意味での自由はあったとしても、異なる神を信じる自由は構造的に認められないのだ。

この点八百万の神を奉して、ありとあらゆるものに神が宿っているという信仰を持つ日本社会は、多様性に関してはまことに開放的である。お寺に生まれた子供がクリスマスプレゼントをもらったりするぐらいである。西欧の紛争の種にしかならない一神教的な排他性は、そもそも縁がないのが日本の信仰である。八百万の神の多様性こそ、実はこれからの世界においては、非常に有利に働くフレキシビリティーである。実はこれこそ日本が世界に誇るべき最たるものではないだろうか。

(19/05/10)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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