天才と凡才のキャズム






努力次第では誰でもなれる可能性がある秀才は、人海戦術で情報処理を行わなくてはならなかった産業社会の段階においては必要とされた人材であった。しかし21世紀になり社会の情報化が進むと、AIの驚異的な進化もあり、努力して勉強すればこなせるスキルは、コンピュータシステムがより速くスマートにこなせるようになった。努力が無意味になり、秀才が必要とされない時代の到来である。

ここに至って「スゴい人」と「普通の人」の間には越えがたいキャズムがあることが、はっきり認識されるようになった。天才と凡才は全く違う人種。残念ながら、人の才能は生まれながらにして違うのだ。スポーツや芸術といった領域では、比較的この事実が社会的に受け入れられていたので、スーパースターを無条件に受け入れる土壌があった。誰でも努力しだいでイチロー選手や大谷選手などと思っている人はいないだろう。

そういう意味では、一番問題があったのは組織のリーダーである。特に日本においては、明治の文明開化以来「追いつき追い越せ」が国是のようになり、社会全体が欧米先進国をキャッチアップするためにオプティマイズされたきた。明治期においてはまだ江戸時代にリーダーの責任を叩き込まれた士族が組織のリーダーとなれたが、その層が世代交代した昭和になると、組織の管理職は欧米の最新技術や文化を猛勉強した秀才ばかりになった。

知識が多くて、そこから演繹的にモノを考える力があるだけの秀才は、追い付き追い越せの時代においては重用されてきただけに彼らはエリートとされ、実は士官クラス、中間管理職クラスに向いているだけの人間なのだが、そのままトップまで上り詰めてしまうことが多かった。彼らは理論で対応可能な戦術レベルの答えは出せても、肚をくくって自分の責任で判断する必要のある戦略レベルの答えを出すことができない。

右肩上がりで順風満帆の高度成長期なら、追風に乗っているだけで何もしなくても利益が湧いてきた。経営トップはお猿の電車の運転士よろしく、そこに座っているだけでよく何も判断する必要がなかった。このような時代背景があったからこそ、ラインの中間管理職しかできない秀才がトップマネジメントの座に着いても、何も問題なく会社経営が続いていたわけである。

ファウンダーやオーナーがいる企業なら、次のリーダーとして選ばれるのは彼等の眼力にかなった人材である。少なくとも企業家精神を持った創始者であるなら、それなりの人材を見抜く力は持っているだろう。しかし、そもそも財閥等の資本の論理で最初からサラリーマン組織として作られた企業には、このような眼力を持ったリーダーが存在する方が稀である。さらに組織そのものも、責任が曖昧な官僚組織として作られることが多い。

これだからこそ、トップに立っても小隊長レベルの発想しかできない、無責任でお手盛りな社長が続出することになる。もともと無責任で、自分が肚をくくる発想のないトップの元では、企業内でも不祥事が続出して当たり前である。21世紀に入って失速する日本企業が続出しているが、その最も大きい理由こそこの「リーダーシップの不在」である。秀才にはリーダーシップは取れない。

リーダーシップが取れるのは、自ら肚をくくって判断しその結果についてはきっちり責任を取るという生き様を、子供の頃から「帝王学」として学んできた人材だけである。日本においてはベンチャー起業家の半数以上が、親がオーナー経営者の自営業かそれに近い士業という家庭環境で育っている。まさにこの事実が、リーダーシップの素養はミームから身に付くものであることを示している。

人は背負っているモノ以上にはなれない。それがより如実により広い分野であからさまになるのが、AI時代の掟なのである。努力とは、才能を持っている人だけがやって意味のあることである。昔から口が酸っぱくなるほど主張してきたが、「0に何を掛けても0」なのである。秀才がやってきた勉強や努力は、0の掛け算の繰り返しであった。高度成長期は0の掛け算でも金が儲かった、なんともめでたい時代だったというだけだ。もはやそういう時代ではない。幻想に溺れているのも今のうちだ。

(19/05/17)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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