努力は無駄






ある事象について考えたとき、世の中にはそれをやれる人とやれない人の2種類が歴然と存在している。やれる人は(レベルはさておき)最初からやれる。やれない人はどんなに努力したところでやれない。この両者の間には、越えることができない壁がある。ある事象についてのみ考えるなら、人の上に人があり、人の下に人があるのだ。決して平等ではない。誰もがイチローのように野球ができるわけではないことを考えれば、こんなことはすぐにわかるだろう。世の中のコトワリとは、実はこういうものである。

人間にはいろいろな個性や能力があるから、全ての領域において誰かが絶対的に上で、誰かが絶対的に下ということはほぼないだろう。そういう意味では「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」であることは間違いないのだが、個々の領域を見てゆく分には必ずしもそういうわけではない。そしてその才能の有無は天賦のものである。自分にどういう才能があるのか、自分を見極めて高望みせずあきらめることが大切なのだ。

かつては努力することが大切とされた。これは世の中が「人海戦術」で動いていた時代に、誰でもできることを「やらない」人が出てくるのを防ぐための方便であった。実は人海戦術で多くの人間を集めれば集めるほど、サボっている人や働いているフリだけする人が混じっていてもわからなくなる。「悪貨は良貨を駆逐する」で、こういう人が混じっていると、全体にサボり癖が伝染し、人海戦術が機能しなくなってしまう。

人手頼りの時代においては、これが最も恐ろしい事態であった。これを防ぐためには、全体の働きをきちんとチェックしサボりを防ぐ監視要員を置くのが最も効果が高い。しかし情報化が進んでいない時代においては、その監視要員自体も人海戦術でなくてはこなせないというジレンマがあった。こうなるといくら人手があっても足りないし、本来なら一人でも多くの人手をメインの作業に投入したいのだが、監視要員にかなりの数を取られてしまうという本末転倒の事態が起こることになる。

そこで考え出されたのが、努力することを美徳とし、サボったり働いているフリでゴマかすことを良しとしない精神性を養うことである。このためには努力を褒めると共に、努力すれば何とかなるし可能性が広がると信じ込ませることが一番である。このために実は出来て当たり前のことであっても、逃げてそれをやらない人が出てくることを防ぐために、努力を必要以上に例賛し、実は当たり前の「出来たこと」を褒めて褒めてその気にさせたのだ。

そういう由来があるだけに、どこまでいっても「人海戦術」がついて回った産業社会の時代においては、努力は一種の必要悪であった。八百万の神の見守り的な「周囲の目」を必要に気にする日本人においては、この努力麗賛は極めて効果があった。努力している自分の姿を周囲に見せることが、自分の自己実現と化してしまったからだ。こういうバックグラウンドがあったからこそ、成果が出なくても「努力して頑張った」ことで評価してもらおうという本末逆転の現象が起きるようになった。

いままで広く社会的に努力が評価された裏には、産業社会特有の「人海戦術」という事情があったのだ。1990年代から始まった情報化の急速な進展により、最後の砦だった情報処理領域も含めて、人海戦術が求められる領域はどんどん狭まり、21世紀も20年を数える今日では、ほとんどなくなったといってよい。これはとりもなおさず、努力が社会的に求められるバックグラウンドが崩れたことを意味する。もはや努力が広く評価される時代は終わってしまったのだ。

もちろん、努力があらゆる面で無意味になったのではない。才能にあふれた天才がその可能性を磨くための努力はどんな時代でも必要である、それは21世紀の今日でも全く変わっていない。そうではなく、産業社会のように凡才でも努力すれば評価され何とかなるという時代ではなくなったということである。そういう努力はAIに任せ、AI以下の凡才は、AIの指示通り動けばいいということなのだ。

そう、大多数の人間にとって、もはや努力は必要ない。単なる時間の無駄である。努力しても何も得られるものはないし、分け前が多くなるわけでもない。そんな苦痛に時間と労力を割くぐらいならば、最初から高望みはせずできる範囲で刹那的に暮らすのが一番である。これからの生き方はこういうこと。考えてみれば、ある意味これは非常に人間的ではないか。贅沢はできないが、いやなことはしなくてもいい。21世紀はこういう時代なのだ。

(19/05/31)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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