多様性を許せない人達






SNSといえばつきものなのが「炎上」である。今でいう「炎上」自体は、パソコン通信の時代から「火事と喧嘩はパソ通の華」と揶揄されるほど頻繁に起こっていた。当時のNifty-Serveのように、アクセス数によりSYSOPにバックマージンが払われるシステムを取っていたサービスでは、わざと喧嘩をけしかけて野次馬を集める常習犯として知られたSigもけっこうあった。また、いろいろなところで喧嘩を起こしては、自分が有名人になったと勘違いするユーザもけっこういた。

こういう因果をみると、「炎上」は匿名で議論を戦わすことのできる場には宿命的に付き纏うものであるといっていいのかもしれない。ところがこのところSNS等で起こっている「炎上」事案をみていると、それらに共通する今までになかった一つの顕著な傾向があることに気付く。かつては「炎上」というと、誰かが行った建前上許されない「失言」をよってたかってここぞとばかりに皆で叩きまくるタイプか、あたかもイデオロギー的に相容れない両者の間で激論が戦わされるタイプか、どちらかというのがほとんどであった。

前者は確かに空気を読まない書き込みをする方も悪いのだが、ある種「皆で叩けば恐くない」とばかりに、群集心理で「日頃の憂さ晴らし」とばかりに失敗した人を「これでもか、これでもか」と叩きまくる、ある種の「集団イジメ」と同じ心理構造から起こる現象である。掃除当番をサボったヤツを、クラスの皆でイジメるのと同じ構造だ。そういう意味では書き込みは集まるものの、その内容は「議論」とは程遠い。昔のニコ動の「www」の連打みたいな脊髄反応的なモノである。

後者はまさしく「議論」であり、それがどんどん白熱してエスカレートして「炎上」になるわけである。昔は、こういう「議論」が白熱するテーマは、そもそも意見が二分されるもの、それも「筋を通す側」と「定説に従う側」との議論というのがほとんどであった。1バイトカナや2バイト英数字、機種依存文字の是否(テキストの互換性・汎用性という意味では使うべきではないが、そこにフォントが入っていて表示されてしまうという意味では無視できない)などは、パソコン通信でもほとんど毎日のように激論になっていたものだ。

このように、かつての「炎上」ではその背後に何らかの「イデオロギー」とでも呼べるものの対立があり、それぞれの陣営がその正当性を主張することで激突がおこっていた。ところが最近の「炎上」事案では、主義主張の内容自体が議論の対象となることが少なくなっている。脱イデオロギーの時代ということもあるのだろうが、論点が思想信条の内容から、生き方のスタンスに移ってきたことを強く感じる。すなわち、多様性を大事にする人か、自分達だけが正しいと思っている人かである。

たとえば人権主義者や反差別活動家を標榜しているのに、自分と違う意見を持つ人が現れると、その人の人権は全く無視し、アタマごなしに存在を否定すると共に、極めて差別的なヘイトを浴びせる人。一方でヘイトスピーチ反対とか言いながら、自分と違う意見の人に対しては口汚いヘイトスピーチを浴びせても、全く意に介せず良心の呵責もない。自分と意見の違う人は、ゴキブリや蠅・蚊と同類だと思っているかのようである。

何にでも「反対」の主張をしていれば、反権力でリベラルだと勘違いしている人。本来欧米において使われているリベラルとは、多様な意見や価値観の並存に対して寛容であることだったはずである。ところが、「反対」することが大好きで目的化してしまったあまり、いろいろな意見を持つ人同士でその違いに理解を深め合うことそのものを否定し、反核運動や護憲運動のように問題を「議論すること自体」さえ全否定してしまうようになった。

なぜこうなってしまうのか。それは情報化が進んだことで、個人一人一人が自分の責任で自分の意見を語る必要性が求められるようになったことと密接な関係がある。そもそも自分の意見どころか、独立した「自分という人格」自体を持っていない人が日本人には多い。それでも社会的には「人格」を持つことを求められる。こういう人は、誰かすでに自分を確立している人や自分が属する集団のアイデンティティーに仮託して、自分の個人としての人格を捉えることになる。

こういう人達にとっては、その仮託したアイデンティティーが「絶対的正義」だから安心していられるのである。多様性を認めると、社会的にいろいろある価値観のどれを自分が取り入れるかという、自己選択の責任が発生してしまう。ところが、もともと「甘え・無責任」だからこそ自己の人格を確立できずにいるこういう人達は、その「選択の責任」の重さに耐えられず、その精神的な重荷やストレスから鬱状態になってしまうわけだ。

これはとても耐えられないし、そもそも最も望まない社会環境に置かれることになる。だからこそ社会的に無責任でいたい人達は、多様性自体を否定し、いま自分が拠り所にして依存している価値観だけが正しく正義であり、他の考え方は邪悪なものとして完全否定したがるのである。つまり、こういう「甘え・無責任」な人達にとって価値観の多様性を認める社会というのは、責任の重圧にあふれた重苦しい空間なのである。

ある意味、欧米発祥で発言や行動が全て自己責任に基づいて行われるSNS等のインタラクティブ空間だからこそ、「多様性の重圧」に対するスタンスの違いが最も顕著に表れるわけである。問題がここにあることが明確になった以上、これに対する対処法は簡単である。多様性を認めたくない人は、そういう人だけで純粋な閉じた空間を作り、そこに閉じこもってもらう。そして、多様性を重視する人はその外側に居て干渉しない。多様性を認めない人にとっては自分達の価値観だけで出来上がった社会に生きられるし、多様性を重視する人にとっては、その閉じた社会も多様性の一要素となる。

実際にリベラルな人やパヨクな人は、どこか盆地の中にでもまとまって住んでもらって、彼等が理想と思うユートピアを作ってもらうのもいいだろう。そんなに沖縄が大事なら、沖縄の島に封じ込めてしまうのもいいかもしれない。日ごろ接するのが自分と同じ意見の人なら、「甘え・無責任」な人達ももう文句は言わないだろう。コロニーの純粋化と、多様なコロニーの並存。これこそ情報化時代の多様性を担保する最大の方法論なのだ。

(19/06/07)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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