危険なジジイ






昨今爺さんの話題といえば、ボケてアクセルとブレーキを踏み間違えてコンビニに突っ込んだりする交通事故を起こす話か、切れて包丁を振り回したりしながら暴れる話か、どちらかである。前者は、突き詰めるところ老人の数が増えるとともに寿命が増し、かつてはハンドルを握る人がいたとしても誤差のうちだった後期高齢者の爺さんが、あっちでもこっちでも車を運転するようになったのが最も大きな理由であるのは間違いない。

「爺さん運転手」については、その母数が昭和の時代に比べれば二桁以上増加しているわけだから、事故発生率の変化に言及するまでもなく、件数増加のかなりの部分が統計的に説明できてしまう。しかし後者の「キレるジジイ」については数の問題というより、構造的問題だ。運転と違ってキレるかどうかは死ぬまで付いて回る問題であり、ジジイがキレるモノであるならば、昔から相当数の事案が問題となっていてもおかしくはない。

やはりこの問題に関しては、生活者インサイト的な分析視点が必要になる。「キレるジジイ」世代の、コーホート分析的な特徴、すなわち意識や行動に対する人格的刷り込みの違いを問題にしなくてはならない。今の70代・80代の老人は、日本が近代史上最も貧しかった戦後の混乱期の時代に人格形成期を迎えた世代である。戦後の経済的混乱は、昭和31年の経済白書の名コピー「もはや戦後ではない」を引くまでもなく、歴史に残る危機的混乱だった。

その失政を誤魔化すための、GHQと官僚が一体となったプロパガンダにだまされてはいけない。太平洋戦争中は、連合軍が太平洋の制海権・制空権を完全に掌握し資源の補給路を断たれることになった最後の1年余りはさておき、国内はこと景気という意味においては軍需景気の後押しもあり、資源不足は現れていたものの、それなりに回っていたというのが事実である。建前上倹約をしても、本音においてはそれなりに享楽的な生活もできたのが戦時中なのだ。

こういう矛盾を隠蔽するために、GHQは戦時中から米国はその組織力を利用しようと虎視眈々と狙っていた官僚機構を活用し、プロパガンダの「布教」を始める。つまり、生活は厳しいし腹具合はひもじいが、自由で民主主義的だからこれは幸せなのだと。この「タテマエ」に乗せられてしまったのが、戦後の「民主体制」なのだ。戦時下の庶民の方が余程したたかだったし、ホンネとタテマエを使い分けることができた。しかし、それもできないほどひもじくなった庶民は、あっさりこの工作に乗ったというわけである。

このように、戦後になると誰も経済を管理・運営することができない混乱状態となり、資源・エネルギーの不足が輪をかけて激しくなったことから極度のインフレに陥り、経済が立ち行かなくなていたのだ。「戦後」とは実はこのような極めて貧しい経済の混乱期なのである。マズローの欲求五段階説における最下位の欲求である「生活生理欲求」さえ満たされない状況下では、人は生きてゆくために何でも平気でするようになる。

喰ってゆくことができないのだから、何が起こっても失うものがない状態である。失うものがないというのは、ある意味最強である。だから昭和20年代には飢えた人が他人が持っていた食い物を奪うために殺人事件が起こってしまうほど、「何でもあり」の状況だったのだ。こういう中でしたたかに育ってきたのが、今の爺さん世代である。当時でも育ちが良かった人は問題ないが、貧しい中から這い上がった人は、こういう「何でもあり」な発想が刷り込まれているのだ。

そう、この世代は若い頃切れまくっていたのだ。最近通り魔事件が問題となっているが、当時は通り魔など日常茶飯事。治安の悪いエリアでは昨今のブラジルのごとく強盗殺人も毎日のように起きていたので、帝銀事件のような集団殺人事件ならいざ知らず、一人殺して金を奪ったぐらいではニュースにもならない時代であった。その一方で、一般の人達も自己責任で自己防衛するという自助努力を続けていたのも事実だ。

こういう育ちをした人達も昭和30年代以降の高度成長の恩恵を受けて、そこそこ豊かな生活を送れるようになった。もちろん、人間には理性がある。こうなると、こういう失うものがない環境下で育つことにより養われた暴力性は、「今日より明日が右肩上がり」になる高度成長下の「明日への期待」の前に、理性によって押さえ込まれることになる。かくして、ひそかに暴力性を封印した世代は、善良な市民ぶって日常を送るようになった。

昔から「三つ子の魂、百まで」といわれるが、歳を取ってくるとだんだんぼけて理性の活動が鈍くなってくる。その分、本能丸出しの行動が表に表れるようになる。ジジイが切れだしたのはこれが理由である。前頭葉の働きが鈍くなり、その暴力性を抑えていた理性が段々と働かなくなる。そうすると、「戦後」の混乱期に養われた「失うものがない」精神がムクムクと頭を持ち上げてくるのだ。

そういう意味では、これはどうしようもない。彼らもまた混乱期にしか通用しない価値観を刷り込まれてしまった以上、戦後混乱期の被害者といえないこともない。それならもう、思う存分切れて暴れてもらえばいいではないか。ローマのコロッセオのような拳闘場を作って、その中でキレるジジイ同士思う存分戦ってもらえば結構。流血のエンタテインメントとしても人気を博すだろうし、なによりこれで切れるジジイ同士が自滅して老人問題の解決にもなるというのがすばらしいではないか。

(19/06/14)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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