日本の男はコミュ障体質






日本の男性にはコミュニケーション障害的な傾向を持つ人が極めて多い。というより、女性の多くが高いコミュニケーション能力を持っているのに対して、最低限のコミュニケーション能力すら持っていない人が多いのだ。コミュニケーション力の問題というと最近起こった問題のように思われがちだが、ことこの問題は古くからの構造的な問題のようだ。

昔から日本の男性には「無口で頑固な無骨な職人」のような類型が多かった。そしてそういう職種が男性の働き口の中心だった。そういう仕事が多くの男性を雇用していたので、コミュニケーション力が問題にされなかっただけである。逆に接客などコミュニケーション力が要求される職種に向く男性は少なかったが、世の中が売り手市場だったため問題になることもなかった。

ところが20世紀を通して工場生産の自動化が進んだことで現場からブルーカラーがいなくなり、21世紀に入って社会の情報化が進んだためホワイトカラーの仕事もコンピュータが取って代わった。このようにこの100年を通して、コミュニケーション能力の低い人間を集中的に吸収していた「労働集約的に人間が関わっていた領域」はどんどん狭まっていくことになった。

自殺者や鬱病になる人も、男性が有意に多い。これもまたコミュニケーション能力の低さから、心の中に悩みを抱えてしまうとそれを自分の中だけで解決せざるを得なくなり、ついには抱えきれなくなって破綻してしまうことに起因している。コミュニケーション能力が高ければ、たとえ悩みを抱えていたとしても、その悩みを他人に相談したり他人と共有することが可能になり、問題を解決したり苦痛を軽減することが可能だがそれができない。

なぜコミュニケーション力に問題が起こるのだろうか。これは決して言語能力の問題ではない。このようなタイプのコミュニケーション障害は、アスペルガーなどの発達障害とは違い、人間関係が理解できなかったり空気が読めなかったりするわけではない。すなわちコミュニケーションする「機能」の部分の問題ではない。そうである以上、コミュニケーションする「内容」の方に問題があることが推測できる。

つまり、こういう人たちはコミュニケーションしようと思ってもコミュニケーションすべきコンテンツを持っていないのである。自分が何をやりたいのか、自分がどうやりたいのか、皆目見当が付かない。だから自分の言葉で自分を語ることができない。もっというとそもそも自分というものを持っていないのだ。生まれてこの方、自分とは何かを考えたことがないし、自分として判断したり行動したりすることもない。

こういうタイプの男性は、会社や官庁など組織の中にいて、組織の中での肩書きが付いてその名刺を持っている分には、個人としてではなく「組織の歯車」として行動することができる。彼の言葉は自分の意見ではなく、組織の意見である。彼の行動は自分の判断ではなく、組織としての動きである。これだと自分というものを持っていなくても、それなりに行動でき、それなりに生きてゆける。

それだけに、会社を定年退職しリタイアしてしまうと一体どうして過ごしたらいいかがわからず、「粗大ゴミ」化してしまう人が昔から多かった。これもまた「甘え・無責任」を求める日本型組織人ならではの問題である。一定のヒエラルヒーの中でないと、自分の存在を捉えられない。そしてそのヒエラルヒーの中に位置づけられている人同士でしか、コミュニケーションを図ることができない。

体育会出身者のコミュニケーション力の低さがその典型である。同じ仲間同士ではそれなりに話が通じるし、それなりに盛り上がるが、バックグラウンドが異なる人とは話のきっかけすらつかめない。日本の海外駐在員がしばしば仲間内だけでコミュニティーを作って固まりがちなのは、語学力の問題ではなく、このような日本型組織人のコミュニケーション能力の低さに由来している。

この手の人々にとってのコミュニケーションとは、相手との甘え合い・もたれ合いの関係を構築することに他ならない。だからこそ相手との関係性が不明の相手に対しては、どういう距離感を取るべきなのかがわからなくなり、コミュニケーション不全に陥ってしまうのだ。もうこれは宿痾である。直せるものではない以上、その人がどちらの人なのかを区別して取り扱う以外に対症療法はない。それが世界に通じる日本を作るための早道である。

(19/06/28)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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