福祉の敵、それは官僚






保育園の問題や介護施設の問題が、この数年大きく取り上げられるようになった。こういう社会保障や社会福祉に関する問題は、突き詰めてゆくとその資金の多くを「官による公的補助」に頼っているところに行き着く。この矛盾が爆発しているのが、現在の保育と介護の問題だ。保育園も介護施設も、官の資金援助をベースにビジネスモデルが成り立っている。とはいえ、バラ撒ける資金は予算によりキャップがかかっている。

すでに公的補助をもらっている事業者にとっては、官の補助は大きな利権である。それを基盤とした経営を行っているからこそ、当然既得権として独占し、新規参入に関しては潰しにかかることになる。保育も、介護も、狭き門になっているのは、この一旦税で集めて、バラ撒きで補助するという構造の問題だ。浅ましい連中がよってたかって限られた金を取り合う様は、まるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」ではないか。

保育園や介護施設を利用したいというニーズが溢れているにもかかわらず、市場原理が働かず施設の増設は遅々たるペースでしか進まない理由は、官と既得権者が結託して許認可権を盾に既得権を守るべく参入を妨害しているからなのだ。官の側としても、この手の領域に自由競争で独立した事業主が参入し、次々と成功して市場を奪われると既得権が意味を成さなくなってしまう。そこで、障壁を高くするのだ。

これはまさに、バラ撒き国家「大きな政府」の悪い面が如実に現れている現象である。「公」の領域を官がやるというのは、貧しい開発途上国の間は社会資本が不充分な分、税金を投入して補助しなくてはセーフネットにならないからである。これはあくまでもテイクオフするまでの経過措置であり、経済力が高まってくれば民間セクタが自主的に事業として取り組んで成り立つ領域となる。それを税金として取って官がやるという発想がそもそもおかしい。

そんなことをしなくても、自己負担で対応できる人は多い。経済が発展するというのは、そもそもそういう社会的蓄積が充実することと同義である。日本はすでにその段階に達しているのだから、「公」の領域は官を介さず純粋に民営ベースで運営すればいい。官がやるのはあくまでも「セーフネット」であり、自己負担ができない人だけを対象として行えば充分だ。それなら必要とされる資金もヒト桁少なくなり、財政赤字問題も解決する。

おまけに、官がやると余計なオーバーヘッドが賦課されてコストがべらぼうに高くなり、直接チャリティーとして支出したる場合に比べて、実際に必要とする人のところに届く金額は減ってしまう。それは官主導でやると、税金を徴収する国と実際の福祉事業を行う組織との間に公益法人を作り、そこに何も仕事をしない高級官僚OBを何人も天下りさせるため、そいつらの懐に入れる分を頭ハネしてしまうからだ。

集めた税金を保障や福祉に回すのではなく、実は自分達の利権として天下り先でいただく金の資金とし、その残りを保障や福祉に回しているのである。折角の福祉予算であっても、そんな無駄な金を盗られてしまった残りしかなくなるから、本当に必要な人に与えられる資金が減少することになり、必要とする人の手に渡らない。保育所や介護施設の定員が増やせない裏には、こういう天下りによる資金の上前撥ねもあるのだ。

ある程度以上の金持ちは、社会保障・社会福祉関係の費用は一旦税金として納めるのではなく、子供の保育サービスであっても、老後の介護サービスであっても、メチャクチャ高額だが高レベルのサービスを提供するようなものを自己負担で受けられるようにすればいい。それで誰も困らないばかりか、限られた福祉予算が本当に必要な人だけに使われるようになるというメリットもある。

そもそも何も仕事をしない天下りの高官一人分のコストで、今以上の厚遇で保育士や介護士を4〜5人雇用できる。社会保障・社会福祉を疲弊させているのは、高級官僚の天下りとそれによる税金のつまみ食いである。右肩上がりの高度成長期はさておき、安定成長期においてはこれは犯罪行為である。今の日本においては、自分の利権しか考えていない高級官僚こそ、とにかく悪人の極みである。秀才を信じるな。官僚に死を。

(19/07/12)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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