「マナー警察」の滑稽さ






最近、妙にマナーを気にする人が増えている。特に若い人に多くなっている気がする。SNSなどをみていると、これだけ人生をやってこれだけ仕事をしてこれだけいろいろな人々と接してきても、一度も見たり聞いたりしたことのない「マナー」がまことしやかに語られている。もしかすると若い世代の一部のコミュニティーでは、いわば方言とでもいうようなローカルルールのマナーができているかもしれない。

しかしマナーというものは、必ず相手があり、相手との間でその行動や所作の記号性に関してコンセンサスがあってはじめて成り立つものである。これがマナーのマナーたる所以である。自分がいかにマナーを守ったつもりでも、相手がそのコトワリを理解していなければ全く意味がない。食事の席で席次を守って相手に譲っても、相手が食卓の席次を知らなくてはかえって怪訝に思われるだけである。

実はマナーというのは階級社会の時代の産物である。より低い階級の人が、より高い階級の人に無礼をしないように、教養や文化のない人でも守れるルールとしてできたのがマナーだ。教養や文化があれば、相手の気持ちを慮ることができるし、相手に敬意を持って接することもできる。しかしそういう知的な蓄積を持ち合わせていない下層の民であっても、マナーさえ守れば馬鹿にされずに済む。そういう目的を持って、マナーという形式が作られたのである。

その一方で上流階級の人間同士の間では、相手に敬意を持って接することが重要視された。そのような身のこなしができることが、一流の人間の証であったからだ。それは形式主義的なものではなく、ソフト的なもの、まさに人間性そのものが問われたからである。このようにマナーを守ることと、相手に対して敬意を持って接することは全く異なる。本当に問われているのは相手に対する畏敬の念の有無なのだ。

最近はあまり見かけなくなったが、昭和の時代は結婚式などフレンチのフルコースが出てくると、妙な「洋食マナー」に従って食べている人を良く見かけた。フォーク・ナイフの持ち方から使い方、パンのちぎり方に至るまで、まことしやかにルールが決められていた。ライスをフォークの裏側に載せて食べるなどというのは、その際たるものであろう。今では笑い話だが、昔はそこここで見られたものである。

私も高校生の頃初めて海外に行き、外国の人達がどういう食事の仕方をしているか直接みて驚いた記憶がある。フランス料理の象徴ともいえるソースは、皆、最後にパンできれいにぬぐって食べている。フレンチはソースがおいしいのである。それを食べずして何を味わえる。また、パンもそうやって食べるから普及したのである。当然食器は、一番使いやすいように使う。

多分日本の洋食マナーは、文明開化でまだ洋食になじみがなかった頃、外国人から馬鹿にされないための形式要件として、小笠原流とか日本のマナーを援用して創作されたものであろう。その段階ではあくまでも緊急避難的な「手段」として使われたのではなかろうか。しかしそれが一人歩きし出し、庶民の間で「この形式さえ守れば恥ずかしくない」と目的化し、金科玉条のごときものになってしまったに違いない。

そもそも本来のマナーとはカタチを守ればいいものではない。相手に敬意を持ち、誠意を示すことなのである。そういう意味では、コミュニケーションの一種である。コミュニケーション力が高ければ、相手とのいい関係を築けるし、こんなマナーなどという形式要件に拘泥する必要はどこにもない。逆にあまりに形式主義的な接し方は、慇懃無礼になってかえって相手の気分を害するのが関の山である。

もしかする最近の若者がありもしないマナーを気にするのは、もともと日本の男性には多い「コミュ障」が、まともな社会生活が送れない脱落者という烙印を押されるようになったため、それがバレないための規範を欲しがっているからではなかろうか。しかし、マナーさえ守れば何とかなるというのは、大いなる勘違いである。社会生活は、そんな甘いものではないよ。何が起こっても臨機応変対応する力がなくては生きていけないのだから。

(19/07/19)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる