自分の身は自分で守れ






個人的には戦国時代というか、周りの全てが敵であり、自分の領分は自分で守るしかないという、いわばMADMAX的世界観が大好きである。というより、私の信条だ。全て敵でありライバルなのだが、第三のより強力な敵を撃破するという一つの目的のためだけなら、共闘し組むこともできる。しかし、その敵を殲滅してしまえば、また競い合うライバルに戻る。他人を必要以上に信じず、刹那的なコラボレーションしかしない美学がそこにある。

アングロサクソン的な考え方というかグローバルスタンダードは、世の中の全てが基本的には敵であって、組むことはできるが守ってはくれないという方である。まず仲間がいるという家族主義も、ヨーロッパでもラテン系とか地中海沿岸諸国には見られる。アメリカのイタリア移民のマフィアの行動原理など、その典型だろう。しかし、少なくとも社会全体の行動原理にはなっていない。だからこそ、マフィアの団結力がアメリカでは「不気味なモノ」として恐れられているのだ。

そういう刹那的な合従連衡の中で、相手を信じすぎたり甘えたりすることなく、自分のポジションをどう高め、どう極めてゆくかを勝負する。これが競争市場の基本である。いや、資本主義の基本であるといってもいいだろう。自立・自己責任で行動できる個を確立した個人であるからこそ、市場原理の担い手となれる。この倫理観が、アダム・スミス以来の自由主義の精神的な支柱となっている。

ここではあくまでも、対等な一人の人間としての「個対個」の関係が基本となっている。共同体的な組織に埋没するしか存在基盤がなく、その組織を離れた個人としてのアイデンティティーを持たない人が多い日本人は、このような自由主義とは極めて相性が良くない。というより、全くお門違いの場に迷い込んだ、いわば「陸に上がった魚」のようなものである。それでもよく乗り切っているというべきだろう。

それにしても、よくそういう日本企業が1980年代には貿易摩擦を起こすほどの世界的成功を収められたものである。年功序列で、先輩のいうことを守り、組織を防衛していればいいという日本的経営でも、グローバル市場で通用してしまったのだ。それはやはりバブルに向かう超右肩上がりのイケイケ経済の追い風があったからであろう。そもそも日本的経営時自体が、テイクオフ期特有の右肩上がりの高度成長をバックに生まれたものである。

責任あるリーダーと無責任なフォロワーからなる近世以前的な組織のあり方を、私はしばしば「桃太郎と犬猿雉」にたとえている。責任階級であり、腹をくくって戦略を立て、推進するリーダーとしての桃太郎。それぞれ一芸を持った職人ではあるが、基本的に言われることをやるだけの無責任な庶民である犬猿雉。このように指揮命令系統がはっきりしていれば、無責任な人も使い道がある。

しかしこの場合、世界は桃太郎が作り、動かしているのだ。桃太郎の犬猿雉が作っているわけではない。この間には、歴然とした壁がある。ところが日本的経営の年功型組織では、犬猿雉が長く在職しているというだけで、マネージャーになり、ついにはトップマネジメントに上り詰めてしまう。サラリーマン社長というのはつまるところ犬猿雉であって、桃太郎ではないのだ。

近世社会ににおいては、王侯貴族や富裕市民のような有責任階級と一般庶民のような無責任階級という形で、この違いがはっきりしていた。その残渣が残っているヨーロッパでは、いまでもそのような階級意識は強い。明治の日本は文明開化で追いつき追い越せを焦るがあまり、次の有責任階級を育てる前に20世紀の大衆社会化の波に飲み込まれ、世界でもまれな「誰も責任を取らない社会」が出来上がってしまった。

東欧で鉄のカーテンの共産圏が作れたのも、スラブ民族特有の「長いものには巻かれたい」感覚、すなわり有責任階級の庇護のもとに無責任でいたいという庶民感覚が、それまでの有権階級とはちがう権力者を求めたからに他ならない。ロシア語では「自由」をスヴォボーダ(свобода)というが、これは語源的には「何でもあり」「無秩序」というようなところから来ている言葉であり、このあたりにもスラブ的な無責任指向の香りが伺える。

とにかく、西欧近代においては「組織に対する忠誠心」なんてものはごく一部の特殊な組織における例外を除くと、そもそもありえないものなのだ。そして功利心を刺激して刹那的な仲間意識を湧き起こさせることしか、メンバーとしての機能を発揮させる手立てはない。組織構造も組織運営も、全てそれを元に構築されており、リーダーがメンバーに対して過剰な期待を持つことはないし、メンバーも組織に対し過剰な期待をかけることもない。

世界で活躍する上で最も必要なことは、英語力でも、交渉力でもない。それ以前に前提条件となるのが、この「人を信じず孤高を貫ける精神力」だ。どんなに語学力があっても、どんなにコミュニケーション力があっても、人を信じて甘えるような性格だったら、それは最高のカモでしかない。だから日本人は海外でいつも失敗するのだ。成功した事例をよく分析してみればいい。そこには自立・自己責任なキーマンが必ずいるはずだ。

(19/08/02)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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