人間とAI






社会の情報化が進むとともにAIに関連する技術が急速に発達したため、産業革命時に「機械が人間の仕事を奪う」とばかりに引き起こされた「ラッダイト運動」よろしく、必要以上にAIを恐れる論調が世間にあふれている。20世紀的なジャーナリズムは恐怖をあおることで読者を増やすというマーケティングを行っており、今でもその影響が残っているので、その影響も多いであろうが、AIが世の中の仕事のあり方を変えるインパクトを持っていることは確かだ。

そもそも人が行うべき仕事というのは、社会の変化により時代によって異なってくる。かつて鉄道の幹線と主要道路が交差する踏切には必ず踏切警手がおり、列車の接近にあわせて遮断機を手動で操作していた。しかし日本では1970年代以降、警報機が保安装置と一体化して自動化するとともに、道路の立体交差化も進んだため、このような手動遮断機は一掃され、踏切警手という職種自体が絶滅危惧種となってしまった。

そういう意味ではAIの発達により人が行うべき仕事のあり方は変わるであろう。しかし、その変化がどういうものであるかわかっていれば、それが必要以上に恐れるべきものではないことは理解できる。もちろんそれで得をする人もいるし、損をする人もいる。現状で抱えている濡れ手に粟の利権が崩れてしまうという人もいるだろう。そういう人は強硬に反対するだろうが、それは今まで得てきたオイシイ想いの反動である。

一番利権を失うのは、知識だけ詰め込むことで地位や収入を得てきた秀才エリートだろう。本質的になにも付加価値を生み出していないのに、産業革命以降の「生産力と情報処理力の格差」に付け込んで、知的労働集約作業で情報処理を行うだけでいい待遇を得てきたからだ。この傾向は日本では1980年代以降、官僚層が税金を無駄遣いするだけで自分達の利権を守ることだけに汲々としだしたことで顕著になってきた。

確かに国富がまだ貧しく、傾斜生産方式等の再配分が必要だった高度成長期には、官僚の役割もあっただろう。しかし秀才のまずいところは、本来の業務が暇になるとその余ったりソースをフル回転して、どうしたら自分がいい思いができるか、どうしたらライバルを蹴落とせるかに、必死に取り組み出すところにある。それも自分の利権を作り出すことより、他者の利権を奪ったり、他者の足を引っ張ったりすることばかり考える。

おまけに今の官僚は、全員官庁が利権しか考えなくなった1980年代以降に就職した連中である。世のため人のために政策を考えたり働いたりしたことはなく、「世のため人のため」というのは、自分達の利権を正当化するための隠れ蓑や方便でしかないことを隠そうともしない中でしか仕事をしていない。ここに気が付くと、AIとの付き合い方もわかってくるし、それが決して恐ろしいものでないことも理解できる。

AIと官僚のような秀才エリートを比較することで、AIのメリットが見えてくる。AIは機械である以上、人間の秀才と違って自分より優秀な人間と競争する動機がない。AIが自らに利権を誘導したり、他人の足を引っ張ることを第一に考えたりすることはない。「ロボット三原則」ではないが、AIが本質的にこういう原則を持っていることを理解していれば、それが人間と敵対するものではないことがわかるだろう。

AIには必ずそのオリジナルをプログラミングした人間がいる。情報技術の発達で、ある種のプログラムがプログラムを自動生成するようにはなるだろう。しかし、その自動生成プログラムにもオリジナルをプログラミングした人間は必ず存在する。そして無限ループに入っても人間に必死に抵抗するAIをプログラミングするヤツなどアホ以下でしかない以上、AIが自らに利権を誘導したり、他人の足を引っ張ったりしないのだ。もしそれをやるAIプログラムがあれば、それはウイルスであり駆除すべきものである。

さらに機械学習が人間の所業から良きにつけ悪しきにつけ学ぶものである以上、生身の人間以上に「人間から学ぶ姿勢」がプログラミングされていなくては、ディープラーニングはできない。効率よく「学習」するためには、謙虚な視点から客観的に人間のやることを観察し、記録し、体系化することが必須である。そのためには学ぶべき大切な相手として人間を捉える機能をプログラミングしておく必要がある。

システムの判断をより高度なものとしてゆくためには、天才の所業を学ぶ必要があるのは言うまでもない。その一方で、人間の愚かさを知り、ミスや失敗を減らすためには凡才の所業を学ぶ必要がある。そういう意味では、天才の成果を学ぶべき課題として積極的に取り入れるのは当然だが、あくまでも反面教師としてではあるものの、凡才に対しても一目置いて学ぶべき対象とする必要がある。

だからこそ、秀才が何とか屁理屈で自分のポジションを守ろうとするのと違って、天才的な人間の存在を認め、その相手に対してリスペクトするとともに、凡才に対しても足を引っ張ることなく、そのような愚かな判断の結末がどこにあるかクールに見きわめる必要がある。ディープラーニングは、愚かな人間にも敬意を払い、その失敗を学ぶことで初めて人間に近付ける。この両面を学習することによって始めて、量的なものだけでなく質的なものを評価できるようになる。

この見極めができることが、AIのディープラーニングにおいては重要なのだ。ただ事例の数だけ取って行くのでは、多数決になってしまい旧来の機械学習と同じである。その判断基準でゆくと「世の中で一番数の出ているメニューが、一番いい料理」ということになり、カップヌードルこそ世界一の料理という結論になってしまう。そうでなく「質」をカウントした判断ができるのが、ディープラーニングの重要な点である。

このように、質の高いディープラーニングが出来るためには、天才に対し一目置くことが必要となる。こういう構造があるからこそ、AIの時代においては天才の存在感がさらに高くなる。その一方で凡才自身は何も変わらないが、人間の愚かさを学んだAIが失敗から救ってくれる可能性が高い。変わるのは、知識や努力だけで自分らしさをもっていない秀才や職人がそれだけでは評価されなくなるというだけのことである。多くの人々にとっては、それは決して自分事ではないのだ。

(19/08/30)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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