我慢しない人






気が付けば、バブル期以降の安定成長はもはや30年も続いている。最初の頃こそ「失われた10年」などと呼ばれ、「右肩上がり」の経済こそ常態であり、横ばいの景気はあるべきではない経済状態だという認識が強かった。しかし、それが20年・30年と続いている。そしてそのような状態の中でも、それなりに日本経済は回っている。そして高度成長や高金利といった用語を20世紀の歴史としてしか知らない世代が、社会人として経済を担うようになってきた。

こうなってくると、昭和生まれの世代もそろそろ考え方を変えるべきではないだろうか。そもそも高度成長というのは産業社会特有の現象であり、情報社会となった21世紀の現代先進国のにおいては、およそありうべからざるものだと。少なくとも高度成長がなくても、根底においては経済は回っている。かつてのような濡れ手に粟のおいしい思いにありつけるチャンスは減ったかもしれないが、世界経済の中で日本の円はいまだに強いし、安定しているではないか。

昭和のオッサンがよく主張する「若者の保守化」も、この文脈で考えなくてはならない。裸一貫で地方から上京し、マイホームを手に入れて中流意識に浸っていた世代。彼らはもともと何も持っておらず、何も失うものがない状態からスタートした。だからこそ、何にでも反対し、何でもよこせよこせと厚顔無礼な主張をおおっぴらにできた。失うものがないから、ダメ元でやってみても傷つかない。これで何かもらえたら、それこそゴネ得である。

55年体制の時代の野党や労働組合といった左翼・社会主義的な主張は、全てこのような「言ったもの勝ち」のワガママから出てきたものである。そして右肩上がりの経済成長は、このような物乞いにもバラ撒いて黙らせるというだけの経済的余裕をもたらした。失うものがないからこそ、まずはネダってみる。それで分け前に預かれればめっけモノだ。この時代の「革新」の本質は、今から振り返ればこういうことになる。

だが安定成長期に育った世代は、根本的に背負っているものが違う。個人的インフラにしろ、社会的インフラにしろ、それらが整備され充実した社会の中で育ったのが今の30以下の世代である。確かに経済成長は小さく、賃金の伸びも高度成長期ほどではない。だが、持っているものがあるのだ。確かに郊外で不便かもしれないが、親の世代とは違い自分の家がないところからスタートするわけではない。

地方から都会に出てくるのも、かつてのように都会で一旗あげるという成り上がりの野望を持っているからではなく、今では地方には雇用の口がないから仕方なく出てくるのである。少なくとも大都市圏で生まれ育った若者には、背負っている世界があり、失うものがあるのだ。これが今の世の中の基調だし、21世紀の現代を渡ってゆくための基本姿勢となっている。しかし、このような社会リテラシーについていけない中高年男性も多いのだ。

「右肩上がりの産業社会」のスキームから抜け出せない中高年男性も、失うものができたのでハイリスク・ハイリターンが狙えなくなった現代社会の中では得意のワガママねだりはストレートに出せない。さすがにそれはわかっているので表面的には奥ゆかしく振舞うが、その裏で時代認識がない以上「甘え・無責任」な考え方を変えることはできない。その結果「内弁慶」の度が過ぎるようになった。

自分のテリトリーの中では、極めてわがままにふるまうようになったのだ。クレーマーや炎上など、インターネットにつきもののトラブルは、皆この層が引き起こしている。実社会における他人との関わりの接点でもいろいろトラブルを起こるようになる。ストーカーやあおり運転などの事件も、その多くがこの世代の男性が犯人である。ワガママがいえそうだと勘違いした環境の中では、傍若無人な態度で周りを引っ掻き回す。

このようなトラブルを引き起こす最大の原因は、右肩上がりの高度成長でいい思いをした体験が忘れられず、我慢をしなくなったところにある。ダメ元のオネダリがまかり通った「古きよき時代」の妄想から抜き出せず、現状を受け入れなくなったのだ。「甘え・無責任」な中高年男性が多い原因は、この過去の妄想への執着にある。まあ、あと20年もすれば労働人口が全く入れ替わってしまうので、これは時間が解決するのであろう。それまでは、見果てぬ夢でも妄想していてくれ。

(19/09/06)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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