性善説の甘え





性善説を信じている人間ほど、手に負えないものはない。性善説を取っている人は、自分は相手の性根はいい人なんだと思っているのだから、相手を良く解釈しているんだと思いがちである。ところがそれは善意の押し付けであって、決して相手にとって良いものではない。おまけにこういうタイプの人に限って、それが相手にとって苦痛になる可能性さえあるというリスクを微塵も考えない。

この結果、性善説なヤツほど無条件に自分の意見や価値観だけが正義だと思い、それを他人に押し付けて何とも思わないことが多くなる。「それが良いのだから、皆がそうであるべきだし、そうあって当然だ」とアプリオリに決めつけているからだ。元来人間の価値観は百人百様、違いがあって当然だ。しかしこういう視点に立つと、違う意見は悪であり、正しい道に救わなくてはいけないということになってしまう。

このように性善説に立つと、違う意見の相手の立場や存在を認めなくなる。性善説は人にやさしいように見えて、その実、善悪二元論に切り分けることで、悪の名の下に自分と異なる多様な存在を排除する。ここからもたらされるものは、ある意味、一神教の宗教戦争のような二律背反のレッテル張りである。社会運動家がともすると原理主義テロリストになりがちなのも、この善意の押し付けによる多様性の否定が原因である。

こう考えてゆくと、左翼やリベラルの平和主義・反戦主義というのも、これと全く同様の「善意の押し付け」のモチベーションが働いていることがわかる。護憲運動・反戦運動をしている市民活動家の基本的な論理は、言ってみれば「泥棒は悪いヤツであり、例外的な存在である。そういう例外的な連中を必ず捕まえるようにすれば、あとは「いい人」ばかりなので犯罪は起きないし、そうすれば鍵はいらない」というものだ。

こういう平和運動・反戦運動のロジックをよく分析すればわかるのだが、その裏には自分達と違うタイプの人間の存在を認めず、均質化した社会を良しとする発想がある。まさに多様性を否定しているのだ。彼らが善意の押し付けの名の下に多様な存在を否定し、自分達の色に染まった単色の社会を理想としていることが良くわかる。だからこそ、平和・反戦を標榜しているにもかかわらず、自分達と違う意見の相手に対しては平気で暴力を振るえるのだ。

ではなぜ彼らはそういう一色に染まった社会を目指しているのか。それは、一色に染まった社会においては個の責任が追求しにくいため、その結果個人に責任が帰されることがほとんどなくなるからだ。つまり、誰が誰だかわからないほど均質な社会になってしまえば、何かあってもその責任を追及する相手を特定することができない。彼等が理想としているのは、そういう金太郎飴を切ったような無責任社会なのである。

ここまで分析すれば、一見全く異なるトレンドに見える社会現象が、実は無責任指向という同じルーツを持っていることが理解できる。確かに画一化した社会主義社会は究極の無責任社会だし、性善説というのもボリュームゾーンの中にいる限り「悪くない」つまり責任を取らされない仕組みである。それらは全て、個を集団に埋没させることで、社会に甘えているのに過ぎない。

このように性善説とは、甘え主義、無責任主義の別名に他ならない。自分が責任を取らず、それを「正義」の名の元に社会に押し付けている。「責任を取る」とは、自分の業や原罪を自覚し悔い改めることである。人は道を誤るものだということを前提にしない限り、責任を取ることはできない。性善説を善しとしている人の中でも、そこまで自覚的に無責任主義な人ばかりではなく、善意の勘違いで性善説を取っている人も含まれているだろう。そういう人こそ、悔い改めていただきたいものだ。


(19/10/04)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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