教壇の魔力





神戸の小学校で、ボス的なベテラン教師が自分の子分のような教師を手足に使って、新人の教師をイジメるという事件が起きた。ある意味公立学校の教師の世界は、官僚的な「長いモノに巻かれる」無責任集団主義的な世界と、教員特有の「ガバナンスのない密室」における非対称的な人間関係を基本とする世界とが交錯する極めて特殊な環境である。この問題は、特定個人の問題に帰するのではなく、このような特殊な環境が孕んでいる危険性を前提に考えなくてはならない問題である。

もちろん、教員の中には極めて優秀な教育者も多いし、人を育てるのにふさわしい人格者も多い。そういうマトモな人が存在する確率は、一般の会社員よりは多いであろう。なにもこういう「いい先生」のお仕事を否定しようなどという思いは全く無い。ただ、それと同じぐらい、いやもしかするとそれ以上に多く、人格や人間性などいろいろな面で問題のある人もまた存在しているのが事実である。

ある意味、平均値で見る限り世の中一般と教員一般の間にそれほど差がないということは、すぐれた教育者がいる以上、それと同じぐらい世間常識から逸脱した教員が存在していることになる。確かに覗きや盗撮といった猥褻事件、体罰や暴力でスポーツ有力校が全国大会に出られなくなる不祥事は、毎月のように伝わってくる。世の中一般よりも「変な人」が多いこともまた確かである。

公立学校の教師もまた地方公務員である。そうである以上、公務員特有の官僚的な組織風土に絡め取られていることは充分に理解できる。そしてこの問題については、ここでもいつも論じている。集団の中に埋もれることで個を隠し、自分に責任が来ないようにするためにはあらゆる手段を講じるというのが官僚の手口である。生徒や保護者に対しては顔を出さざるを得ないものの、確かに学校という組織は、誰が指示したのか、命令したのかが極めてわかりにくい。

しかし、この部分については役所と同じである。それ以上に、「日本型組織」においてはどんなところでも多かれ少なかれ持っている問題である。これだけが教員の世界の問題を生み出しているわけではない。教員ならではの構造的問題が絡んでいるから、値が深くなるのだ。それは日本における「学校の先生」という制度や仕組みが必然的に生み出してしまう問題である。

それは、学校とか教室という組織は、一般社会から隔絶され、ブラックボックス化してしまっている点に由来する。この20年ぐらいは「地域に開かれた学校」とか、「社会人経験のある教員や校長の採用」など、学校の風通しを良くしようという動きが見られるようになった。しかし、長らく学校と社会の間には高い塀があった。そして、学校の中でも入れ子のブラックボックスが重なっていた。

学校の人事とか評価とかは、外部からは全くあずかり知れない。民間企業なら、IRや株主総会のようにディスクロージャーの場があり、ここできちんと説明責任を果たせないとレッドカードになってしまう。政治家も選挙というオープンな場があり、下手なことをするとあっさり落選してその地位を失う。しかし公立学校においては、これが全く伏魔殿になっていることが多い。おまけに自治体によって一様ではない。

これだけでも問題なのに、ひとたび教室の中に入ると先生と生徒との関係というのは極めて片務的である。ヒエラルヒーが圧倒的に違い過ぎる。先生が生徒の理解を深めるための努力を何もしなくても、「うるさい、静かに聞け」と怒鳴れてしまうのだ。これは伝家の宝刀で、抑止力としてはあるのだが使ってしまってはおしまい、というものなのだが、相手が圧倒的に非力な生徒だとこれを使ってしまう人が出てくる。

実は、営業のプレゼンテーションなどに比べれば、生徒をひきつけるなどというのは朝飯前である。クライアントはそもそも金を出す気はないし、こちらの話に興味はない。それをこっちを向かせて、その上で納得させて金を出させるのがプレゼンテーションである。少なくとも(登校してこない生徒はさておき)教室に来ている生徒は、面白ければ授業を聞きたい、勉強したいと思っている。全く前提条件が違う。

それなら相手が興味を持ち、理解できるような語り口で説明すれば、どんどん奏き込まれてくるはずだ。実際優秀な先生はそれを実践している。生徒のマインドさえ理解していれば、これはそんなに難しいことではない。その努力を怠って、挙句の果てに「黙れ、聞け」ではコミュニケーションが成り立つはずもない。こういう環境でずっとやってきてしまうと、社会人の成人として当然持っているべきコミュニケーションスキルが全く無い人間が生まれてしまう。

というか、もともとコミュニケーションスキルが低い人間がかなりの割合で教員になってしまっているので、こういう問題が発生するということもできる。今回の「ベテラン女教師」もそういう人なのだろう。威張りさえすれば、みんないうことを聞くと思っている。ある意味、こういう勘違いをするのは教壇に魔力があるからだ。そして、その危険性のある人は教壇に立つべきではない。

幸い、ITとかコミュニケーション技術が進んできて、知識を伝授する部分においては、必ずしも生身の人間が必要なくなってきている。かつては人海戦術で、全部フェイストゥーフェイスで伝えなくてはならないから、変な人も教師に紛れこんできたのだろう。これからは少子化で子供も減るし、そんなに頭数はいらない。きちんとした教師を集めて、きちんとした評価をできる私立学校を中心に、教育を再編すべきなのであろう。


(19/10/25)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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