21世紀の対立軸





第一次世界大戦が終わってアメリカが世界経済の中心となり、先進国では大衆社会化が進展し、モダニズムと科学主義・合理主義が巷を席巻した1920年前後になると、20世紀らしさがほぼ確立した。この頃に、今生きている我々が常識と思って育った大衆社会・産業社会的なスキームが出来上がったのだ。そういう意味では世紀が変わって20年ぐらい経つと、新しいスキームがほぼほぼ見えてくるといって間違いない。

21世紀もすでに約20年を過ぎた。人によってどこまで見えるかは違うだろうが、21世紀の人間社会を規定する枠組みはほぼ出来上がっているはずだ。そういう目で昨今起こっていることを分析すれば、これからの21世紀がどのようなものになってゆくのかがかなり明確になってくるはずである。確かにこの10年ぐらいは、20世紀的な価値基準では捉えきれない現象が多く起こっている。これらの中から、今回はまず21世紀的な対立軸がどこにあるのかを見てゆきたい。

20世紀においては対立軸というと政治的なイデオロギーがすぐに連想された。しかし、それは20世紀を特徴付ける「産業社会」特有のスキームであり、「情報社会」へと社会の構造が変化した21世紀においてはもはや意味を持たない。既存の知識人や学識経験者は、そういう朽ち落ちてカビが生えた枠組みで世の中を捉えようとするから、問題の本質を捉まえることができず、見当はずれの分析しかできないのだ。21世紀には21世紀用の枠組みを持つ必要がある。

まず21世紀において最も重要になるの論点が、「世の中にはいろいろなあり方があるべきだ」と多様性を尊重するか、「あくまでも世の中に正義は一つしかない」と画一性を主張するかという点である。この数年、かつて左翼やリベラルと呼ばれていた人達が、自分達と違う意見の人々を極端に攻撃・排斥する傾向が目立つ。同様に人権主義やフェミニズムを掲げていた人が、自分と異なる意見に対して平然と差別やヘイトを行うダブルスタンダードも頻発している。

この問題をきちんと理解するには、彼等が政治的主義主張の以前に、世の中に単一の正義しか認めない画一主義者であることを踏まえなくてはならない。彼等の考え方はある意味原理主義的な一神教であり、彼らにとっての論戦は異教徒との宗教戦争なのだ。そういう構造で考えると、何でも嫌韓・嫌中で済ませてしまうネトウヨも、何でも反アベで済ませてしまおうとするパヨクと「一神教原理主義」という点では同じ穴の狢である。

特に日本においては顕著だが、自分の中にアイデンティティーを持っていない人にとっては、長いものに巻かれる、強いものに仮託することで自分の居場所を確保することが必要であり、このような「単一の正義」にあこがれやすい傾向がある。そして自己アイデンティティーを確立している人よりも、そうでない人の方が数的には多い。だからこそ強いアジテーターが現れるとネトウヨもパヨクも皆なびくポピュリズムが起こってしまうのだ。

さて、その次に重要となる社会を規定する価値観軸は、20世紀の大衆社会を経て確立した「平等」の意識の拠り所をどこに求めるかという点である。平等には「機会の平等」と「結果の平等」とがあり、同じ平等とは言ってもどちらを重視しフェアさの基準とするかによって互いに相容れない主張となる。これは全く同じ条件下で競った結果生じた、「結果としての差」を認めるか認めないかの違いといってもいい。

入口で足切りをしてしまい、ある条件下の人にはスタートラインにさえ立たせないことがアンフェアなのか。それとも結果で順序が付いてしまうことがアンフェアなのか。これもまた、どちらの考え方を基本とするかによって、意識や行動は大きく変わってしまう軸である。ひところ小学校の運動会で「参加することに意義がある」とばかりにフィニッシュの順位をつけないという現象が見られた。

これをおかしいと思うか、それともいいことだと思うか。考え方としてはどちらもあっていいのだが、両立しないことは確かである。結果が出ないのに汗だけかいて「頑張った」と言っている人をどのように評価するかといったときにも、このどちらの立場に立っているのかによって大きな違いが出る。そもそも平等を認めたくないという人がいるかもしれないが、それでも建前としては平等に対する姿勢はあるはずなので、そちらを基準にすれば皆どちらかに入るはずだ。

これを元に2軸4象限のチャートを作ると以下のようになる。




文中で触れたように、単一の正義領域である第三・第四象限を総取りするのがポピュリズムである。マス・ヒステリーのように捉えられがちなポピュリズムが全体主義と相性のいい理由は、これでよくわかるだろう。また、社会主義・共産主義が全体主義独裁政権になってしまう理由や、共産圏がユーラシア大陸の東側で奥まったところに出来上がった理由も、実はこの「原理主義的一神教」体質にあったことも今となっては良くわかる。

小泉政権下での改革ブームも、「改革派対守旧派」というわかりやすい二項対立の構図が、本来の改革支持層を越えて「原理主義的一神教」の人々にも「頼るべき心の拠り所」として響いてしまったため生じた現象であることが理解できる。これがちょうど21世紀初頭に起きたというのは、ある意味起こるべくして起こったということもでき、新しいスキームの萌芽的な現象として捉えなおす必要があるだろう。

こう見てゆくと、21世紀においては何らかの方法で2つ以上の象限を確保できれば、かなりの社会現象が沸き起こるという法則性が見えてくる。それが主張やメッセージなのか、人なのか、方法はいろいろあるとは思うが、戦略のカギはそこにあるだろう。もっとも産業社会のような「大きいことはいいことだ」的発想自体が弱体化するので、より小さくなったコミュニティーがこの象限ごとに分離独立し、独自に発展してゆくことも考えられる。人類の将来という意味では、そっちの方が明るいとは思うが。


(19/11/22)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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