責任のがれと忖度





責任のがれと忖度、それは日本のサラリーマンの性。しかし、それではクリエイティブなこと、イノベイティブなことはできない。世の中の情報化が進み、AI時代に突入する今こそ、責任のがれと忖度に明け暮れる秀才偏差値エリートを一掃し、クリエイティブでイノベイティブな人材が活躍できるチャンスでもある。そのためにも責任のがれと忖度がどこから生まれ、どうして日本の組織の黄金律となったのかを見て行こう。

出る杭は打たれる同質化圧力は、無能な人間でも頭数を集めて使う必要があったから重視された手法である。ここに気付くことが重要だ。それは、江戸時代にまで遡る。お上に対しては建前に沿って行動し、面従腹背を決め込む。その一方で、お上の目の届かないところでは、自分の好き勝手にやりまくる。この使い分けは、江戸時代の庶民にとっては常識であった。そして建前に沿って行動し、面従腹背を貫徹するための知恵が「同質化圧力」であった。

支配階級である武士は、圧倒的に数が少ない。このため改革政治が行われて規制が厳しくなったとしても、実際にそれを全て摘発するだけのリソースがない。このため、江戸自体においては「一罰百戎」となるような事案のみは取り締まったが、ローラー作戦のように法に触れた物を全部捕まえることなどとてもできない。この事情を庶民は良く心得ていた。

このため、同質化圧力を働かせて庶民の方が皆が皆同じになる金太郎飴になってしまえば、多少踏み外してやっていても、取り締まることができない。まさに「赤信号、皆で渡れば恐くない」である。このため、それがいい方であっても悪い方であっても、人と違う動きをして一人目立ってしまうことはキツく戒められた。それが250年続く間に、しっかり近代日本人の基本的な意識となってしまった。

明治に入って文明開化が求められると、まだ産業革命が起こってからそれほど時間が経っていない時期だっただけに、工場においても自動化まで進んでおらず、労働集約的な対応で生産を拡大することが求められた。これには、日本の庶民が身に付けていたこの習性が創発的に役に立つことになる。労働集約的な作業をこなすには、全員が同質的になり、同じ方向を向かって歩調を合わせるのが最も効率的である。

そもそも「上から命令」されると、面従腹背ではあってもタテマエとしてそれに同質化せしてしまう人達なのである。当然工場の中で組織的に働くようになると、この習性が発揮され、少なくとも表面的にはその命令にピタリと合わせてくる。これは根が生真面目とかそういうことより、行動様式として定着していたからこそ引き起こされて現象である。少なくとも、追い付き・追い越せで欧米の先進国をキャッチアップする上では役立った。

何度命令しても個別バラバラにしか動かず、最適化を実現できない人達の方が世界には多い。だからこそ、いくら「生活が良くなるから」といって鼻先にエサをぶる下げたところでモチベーションが上がらず、結局経済もテイク・オフできない国や地域もざらである。その中で欧米列強の植民地化されず、20世紀前半にそれなりの経済的プレゼンスを持つ国となるためには、この気風は意味があったと言えるだろう。

とはいえ、近代的な組織のハンドリングについては、日本の組織人はこのような「日本的運営」しか知らないことになる。ある意味これは欧米人や欧米の経営学者にとっては脅威だっただろう。こういうメンタリティーで支えられている近代組織が存在するとは夢にも思っていなかったかもしれない。しかし高度成長を突き破りバブルに突入した1980年代に至って、「Japan as No.1」とか「日本的経営」とか言われたため、賞賛・正当化されたと思い増長してしまう。

それは、オリジナリティーを持った経営を目指すための究極のスタイルであるはずはなく、あくまでもベンチマーキングによりキャッチアップを実現するための手段であった。ここがキャッチアップが目的だった日本的組織・日本的経営限界である。当然その限界もこの時代に露見するようになる。しかし日本の不幸はこれに変わる手法やスタイルを全く持っていなかったところにある。

それまでの時代においては、労働集約的な効率を追求したライン型の組織の中において、中間管理職が上層部の意志や戦略を忖度して広めることは決して意味がないことではなかった。それ以外に上層部が社内にヴィジョンを徹底するメディアがなかったのだから仕方がない。中間管理職が上層部のヴィジョンに陶酔し、それを完全に理解し徹底できるのなら、この方法でも組織を一丸とする手法としては間違いとは言えない。

しかし、純粋で従順な人だけでなく、ズル賢い秀才が偏差値だけで出世するようになると状況が一変する。ヤツらはそもそも自分が責任を取らずにいい思いをすることに、その知力の全てを賭けてくる。まさに名著「失敗の本質」の関東軍の世界である。天皇陛下に対する敬意を全く持たず、責任を押し付けて自分が無責任になる道具としか思っていない。まさに名前と権威を自分の責任逃れに使う「逆忖度」の世界である。

天皇の名においてラインの上から出された本物の命令には一切従わない一方、ラインの下に対しては勝手に自分に都合のいい命令を天皇の名において出す。この矛盾を隠蔽するためには、東京と旅順と距離があったことを利用して、上に対しては形式的には忖度して命令に従っているような報告をしつつ、下に対してはありもしない命令をあたかも中央から出たようなふりをして指令する逆忖度をおこなう。

これはけっして関東軍の専売特許ではない、日本の官僚組織ならどこでも多かれ少なかれやっている「お家芸」である。官僚だけではない。官僚組織に範を得た日本企業においてもかなりの程度共通してみられる特徴である。今でも海外拠点では、お手盛りや不正取引、ハラスメントなど、問題の渦になっているところが多いが、本社への報告や監査のチェックに対しては清廉潔白を装っている。

まさに、上への忖度と下への逆忖度が同時並行的に起きるのが特徴である。そしてそのモチベーションになっているのが、権威を借りることによって責任から逃れようとする「無責任主義」である。これは秀才に中間管理職をやらせる限り、日本においては永遠について回る問題である。とはいえ、そういう役割も時と共に人間ではなくAIが行うようになる。AIでも悪意のプログラミングがなされていた時にはどうかという疑問があるかもしれない。

それはさして問題にならない。なぜならAIなら360°の論理的整合性のチェックを掛けることが可能だし、それさえしておけばこういうごまかしは不可能になる。AIで処理しているのなら、面の表だけをチェックするのではなく、腹の中まできっちりチェックを入れることで、「面従腹背」であっても真相を暴くことは簡単だ。そういう意味でも早く官僚組織はやめにして、AIによる処理にしてもらいたいものだ。官僚の抵抗はあるあろうが、もうそこまで来ているのだから。


(19/12/06)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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