恥を知らない人達





衆議院の解散・総選挙の可能性が見えてきたせいか、このままではとても選挙に勝てそうにない野党の皆さんがアセり出してきているようだ。なんと旧民進党系の立憲民主党・国民民主党と旧無所属の会に加えて、もはや生きる屍と化した社民党まで参加して新会派・新党と作ろうという野党合流構想まで俎上に登っている。これを「烏合の衆」と言わずして何といえようか。

そもそも全て打つ手が間違っている。どうせ民進党が再結集するんであれば、そもそも分裂しなければよかったのだ。立憲民主党と希望の党になる前に民進党自身が左派を切り捨てていれば、当時はまだそれなりに勢力のあった自民党内の反安倍勢力と手を組む可能性もあったし、政権を取れる可能性も皆無ではなかった。たとえホンネは自分の議席を守るためであっても、戦略的に考えればこちらの方がよほど現実性が高い。

それを個人的な好き嫌いや、自分の選挙区での直近の戦績などに気を取られて、小異を捨てて大同に付けない子供のケンカのような仲違いになり、そこから自滅への道を突き進むこととなった。こういう「目先の牽制」にばかり気が行ってしまい短期的な取り繕いばかり繰り返すので、本当に考えなくてはならない中長期的視点が全く抜け落ちてしまうというのは、日本の組織の持っている悪癖である。

野中郁次郎先生が名著「失敗の本質」で明らかにしたように、何一つ戦略的に決定することなく、日本が太平洋戦争の泥沼にハマっていった流れこそ、まさにこの日本の組織の悪癖が引き起こした。ここで明らかになったのは、現在の野党の皆さんにはこういう危険な体質が色濃く受け継がれているのである。そして分裂以降どんどん泥沼にハマっていったのは周知のとおりである。

野党の皆さんが金科玉条のごとく主張してきた「アベガー」にしろ「モリカケ」にしろ「サクラ」にしろ、そこには将来に関する戦略的視点も、日本の政治や経済をどうしようかという方向性も、そもそも政党として政策を語る時になくてはならないヴィジョンが全くない。単に、騒いでマウンティングし、自分の存在感を示したいという猿山の猿レベルの行動でしかない。これじゃガキのケンカである。

百歩譲って、それをやっているのが諸派の泡沫政党ならば、まだ冗談で済むかもしれない。ポピュリズムでファシズムの全体主義を主張する「れいわ新撰組」も、ほとんどギャグをカマしているだけのような「NHKから国民を守る党」も、その主張ややり方にいろいろ問題があるかもしれないが、それが1議席とか2議席であれば「頭ごなしに否定して攻撃する」というのもオトナげない全体主義である。

ところが、もと民進党の皆さんは、「自分達が2大政党の片割れで、政権を担う力がある」と勘違いというか思い違いをしたままだ。確かにかつての新進党も民主党も自民党から政権交代を実現した。しかし、その主役は脱党して移ってきた元自民党の人達だ。いわば自民党の派閥間での政権抗争が、党を越えた形で行われるようになったからこそ実現した政権交代である。

生まれながらの野党の人や、野党側に風が吹いている時のブームで政治家になった人には、政権を担うだけの力も政見もない。まあ政権を取った時には、こういう人も員数合わせで「与党の一員」となってしまったので、何も努力しないまま「与党としてのいい思い」をした経験だけが記憶に残る。そして、今野党に残っているのも、こういう人達ばかりである。いわば残ってしまった箸にも棒にも引っかからない人々。

まあそうであるからこそ、戦略的に将来を考えることもなく、反安倍を主張していれば自分達の存在感がアピールできるという勘違いをしてしまうのだろう。主義主張はいろいろあっていいし、あるべきである。しかしそこで大事なのは、どんな主義主張を取ろうとも、価値観の多様性を重視することと、日本の将来をどのようにし、そのためにはどのようなプロセスを考えているかを明確に示すことである。

この部分を互い示しあい、とことん考え方を議論しあうのが政策論争である。まあそれだけの力がないのに政治家になってしまったので、スタンドプレイでも何でもカマして、自分の存在感をアピールして次の選挙で何とか議席を守ることしか頭にないのであろう。しかしそれは余りに自己中心である。日本の国や社会のあり方について考えられないなら、政治家はやめるべきである。これこそ不祥事や失言以上に不適格というべきだ。


(19/12/13)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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