野党にレッドカード





言うまでもなく、昨今の野党の劣化ははなはだしい。政治家としての本分を忘れたかのように、単に次の選挙での自分の議席を守ることしか考えずに、スタンドプレイにいそしんでいる。もともと野党びいきの強いマスコミ・ジャーナリズムも、それに乗っかってことさら書き立てているが、世の中からは白い目で見られ、呆れられているだけだ。本人はいい気になっているようだが、こんなことをやればやるほど人心は離れて行く。

与党の政治家の発言や行動の言葉尻を重箱の隅をつつくようにほじくり出し、ことさら大事件のように針小棒大に喧伝する。これはガキのいじめでよくある「相手がどうでもいいことを何度も繰り返して言う内に、段々相手がウザったく感じてキレるのを見て茶化す」というパターンとほとんど変わらない。ある種のマウンティングで、キレた相手より自分の方が上だという自己満足以外なにも生み出さない行動だ。

確かに「反対のための反対」は、55年体制の頃から当時の社会党や共産党といった「野党」の得意技であった。しかし、その時代は政権を取ろうという意志も可能性も全くなく、ゴネ得でバラ撒きに預かることしか考えていなかったのだから、チンピラのカツアゲと同じで強面になるための手段であり、それはそれでよかったのだろう。しかし、その当時の野党とは違い、今の野党は一度は政権を取っているのだ。

野党各党の幹部の人には、民主党政権時に大臣の椅子を経験した人も多い。しかしその民主党政権が自己崩壊してから10年近く、このような状況が続いている。そもそも民主党が政権を取ったことにより、民主党政治家の無策さがあらわになり、こんな政治家には任せられないとばかりに有権者から見放された。だからこそ、その後万年野党化してしまったことになぜ気付かないのだろう。

もっというとどんなメディアの世論調査でも、安倍内閣の支持理由の上位に「まだましな内閣だから」という意味の回答が必ず入ってくる。野党の人はこれが「何よりもまだまし」なのか考えていないのだろうか。自民党の熱烈な支持者でなくとも、あるいはかつての民主党支持者だった人も、「今の野党」よりは「まだまし」だと思っている人がここに丸を付ける。自民党を支持していない人でも、今の野党よりはいいと思っているのである。

そもそも今の野党は、政策が全く見えてこない。これでは有権者が投票するモチベーションが生まれない。かなりキワモノで問題含みの「NHKから国民を守る党」や「れいわ新撰組」が前回の参議院議員選挙で議席を獲得したのは、少なくともその中身の良し悪しはさておき、「主張がはっきりしていた」からであろう。これではもし現状の与党に不満があったとしても、野党に投票することはない。棄権がせいぜいだ。

少なくとも政党討論会などの場にお声がかかる「政党」であるなら、きちんと政策を掲げ、それをどう実現するかをアピールできなくては支持は集まらない。しかし明確に政策を持ち、それを有権者に理解させようとしている党は、野党統一候補などと主張している政党の中にはない状態だ。特に旧民進党が分裂してできた各集団の政策上の違いなど、誰にもわからない。そもそもないのだから、当人にもわかっていないのだろう。

日本共産党も、昔は天皇制反対を明確に主張していたのだが、いつからかそういう主張を引っ込め、護憲を標榜している。日本国憲法には天皇を日本国の象徴とすることが明確に規定されており、護憲ということは天皇制支持ということになってしまう。しかし天皇制反対をやめて方針変更したのかどうかすら明確には主張しておらず、この点に関してはいたって曖昧である。共産主義革命を目指さなくては共産党の名が廃ると思うのだが、これすらはっきりしない。

これはある意味90年代以降政治家を目指す人は、一部の二世議員を除くと、何か志があって政治の道を目指すのではなく、政治家になることが人生の目標になった人ばかりとなったことに起因している。理念を実現するための手段として政治家になるのではなく、政治家になること自体が目的化している。これでは議会制民主主義自体の危機といわざるを得ない。世の中の情報化を前提に、21世紀らしい民意の反映システムを構築することが急務なのだ。


(19/12/20)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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