上から目線の勘違い





かつて「メディア」を持つことが期待に繋がった時代があった。メディアを持つことによって始めてより多くの人にメッセージが伝えられる。グーテンベルグが印刷を発明して以来、長らくそう信じられていた。時代とともにコミュニケーション技術が発達し、電信や電話、放送が発明されると、その伝達力の強力さゆえに、そこで伝わるメッセージ以上に、メディアを持つことが目的化してしまった。

確かに人々が情報に飢えていた時代は、情報の内容以上に情報が手に入ることを求めている人が多かったことも、この傾向を助長した。食料が充分に得られず皆が飢えている世界では、味や質を問うことなく、どんな食べ物でも腹に入りさえすればむさぼるように食ってしまうのと同じである。しかし、飢餓状態を脱すれば、このような状態も続かない。受け手のほうはこの事実にいち早く気がつく傾向がある。

その一方で送り手のほうは、売り手市場の状況を長く経験すると上から目線になり、自分の送った物を受け取ってくれる受け手を低く見るようになる。「こんな物でも与えておけば充分だろう」という発想である。日本のメーカーが高度成長期のおいしい体験からプロダクトアウトにどっぷりはまってしまったのと全く同じ理由で、既存のマスメディアは顧客である読者や視聴者を上から視線で見下す姿勢が身に付いてしまった。

新聞が見放されたのは、これが理由である。いつまでもコンテンツは、「我こそが正義である」と言わんがばかりの我田引水な意見の押し付けに満ちている。こんな独りよがりの意見を、金を出して買う人などいない。テレビも報道番組などはほとんど同じ傾向である。聞きたくもない意見を、押し付けがましくわめきたてる番組を視聴するなど、時間の無駄以外の何者でもない。

ポイントは、メディアでメッセージを伝えるのではなく、メディアを持つことが目的化し、そこに安住してしまったところにある。メッセージを伝えるには、その内容を研ぎ澄まし受け手が喜んで受け入れてくれるものとする不断の努力が必要である。アーティストはこういう努力を怠らないし、マスメディアでもエンタテインメント系は競争が激しい分、基本的に「出すこと」が目的になることはなく、常にコンテンツの質を高める努力を行う習性が身に付いている。

ここは逆にインタラクティブ・メディアの方が謙虚である。インタラクティブ・メディアはフラット&オープンでないと事業として成り立たない。従って水平統合型にして、なるべく門戸を広く構えたところが最も成功に近づくことができる。このため誰でもそこを利用することができるが、その中での競争は一段と激しくなる。こうなってくると、メディアを持っていることと、コンテンツでの成功は全く切り離されてしまう。

その典型を、昨今中学生の憧れの職業になっているyoutuberで見ることができる。動画をyoutubeにアップロードしたからといって、それで即話題になるわけではない。インタラクティブ・メディアの本質がわかっていない人は、ここを勘違いする。メディアに載ってからアタるまでの距離の遠さは、インタラクティブ・メディアではめちゃくちゃ遠いのだ。メディアに載っていることとウケを取れることは全く関係ない。

マスメディアでも、オンエアすれば即アタるわけではないことは、視聴率が取れずに途中打ち切りになる番組の方が圧倒的に多く、その死屍累々の上に数少ないヒット番組が現れる事実をみればすぐにわかる。もちろんテレビ制作現場の人は、この辺の恐ろしさは重々承知している。ところが一般の人は、ヒット作の違いやヒットの秘密がわからないから、出せば当たるのではないかと勘違いしている。

インタラクティブ・メディアではその状況は桁外れにシビアだ。アタっている人は、マスメディアで芸人をやろうと、大道芸で見せようと、場を問わず見る人を惹きつける才能を持っている。youtuberでアタる人とは、結局こういう才能を持っている人なのだ。従って、人気youtuberが芸人やタレントの登竜門としても機能するようになってきている。

youtuberになっているのは、単に、コンテンツの製作コストが下がり、個人レベルで扱えるコンテンツデリバリー手段ができたから、そこにサクサク作って載っけているだけだ。 その方が気楽にサクサクできるし、いろいろな禁止条項を忖度する必要がない分、劇場でのライブのように、より本音に近いネタを披露することができる。

唄作って唄ってみて人気を呼ぶ人は、オーディションやコンテストででも通るし、人気者になると実際メジャーから声がかかる。昔のインディーズやアンダーグラウンドでの活躍が、インタラクティブメディアでの活躍に変わっただけのことで、「才能のある人の作品が、多くの人から支持される」という構造は変わっていない。

ロングテールでのヒットというところは多少変わったかもしれないが、ローカルヒットやライブハウスベースのヒットというのは何十年前からあるスタイルであり、それがやりやすくなったということはあっても、本質的な構造が変わったわけではない。逆に、敷居が下がったからと言って、才能のないヒトにチャンスが広がったわけではない。ここを勘違いしてはいけないのだ。

かえって敷居が高かった昔の方が、何らかのコネで才能がなくてもチャンスを与えられることが多かった。ジャーナリストとしての才能がなくても、大手新聞社に入社して名刺を持てば、新聞記者でございと偉そうな顔をできた。そういう化けの皮が剥がれて、誰も新聞を読まなくなってしまったのも、インタラクティブメディアの功績である。

結局は、才能のある人は何をやってもいつかはアタるし、才能のない人は何度やっても芽が出ない。ただそれだけのことである。努力したからといって、どうにかなるものではない。インタラクティブはそれがよりはっきり現れてくるだけのことである。これも結局AIの普及と同じように、コンピュータが才能のある人間と凡才の人間とをより分けてしまう結果である。まあこの流れに棹差挿そうとしても無理だし、、その結果を受け入れることが一番だよね。


(19/12/20)

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