孔版刷りメディアの時代を知っているか





コンピュータとコミュニケーションが結びついた1980年代から、これによってフラットなプラットフォームが生まれ、誰もが自由に情報を発信できる時代が来る、というような論調はまことしやかに語られていた。もちろん、情報技術、通信技術といった技術的視点からは、確かにそういう見方もできる。だがそれは、いつでもどこでもコミュニケーションできる「環境」ができる、という意味でしかない。

それは、コミュニケーションが相手がいてはじめて成り立つものだからだ。相手から受け入れられない限り、コミュニケーションは成り立たない。誰も聞き手がいないところでいくら叫びまくっても、それはマスターベーションであってコミュニケーションではない。そして相手から受け入れられるというのは、相手が理解できるように、相手に通じるように努力してはじめて可能になることである。

インフラやプラットフォームがいくら充実しても、この点が解決しない限りコミュニケーションは成立しない。コミュニケーションを成り立たせるというのは、極めて難しいことなのだ。だからこそ、そこに思いが及ばなかったり、それを成り立たせる努力をしなかったりする「コミュニケーション障害」なヒトたちが出てくるわけである。これは人類が言葉を持った時からの宿命であり、情報メディアを介そうが介すまいが変わらない。

ただ、情報メディアが発達することで、コミュニケーションしなくてはならない機会が増えたからこそ、そういう問題が顕在化したということは言えるだろう。そういえば1980年代にパソコン通信が登場したときから、はなから相手のことを考えず場の空気を読もうともしない「困ったちゃん」と呼ぶ輩が表れて、みんなが顔をしかめていたわけだ。対面ではコミュニケーションを控え単に無口を装っていればものが、端末が相手だとつい自分の思ったことを言ってしまうのだ。

匿名の書き込みだとカゲキになったり、言い過ぎたりする人が多いのも同じ理由である。相手の気持ちになってものを考えたり、言いかたを考えたりすることがコミュニケーションを成り立たせるための最大の条件なのである。そして、それは誰でもできることではない。芝居でも音楽でもいいし、小説でも映画でもいい。相手に通じ、相手を感動させるコンテンツを作ることは誰にでもできることではない。実は、コミュニケーションを成り立たせるのも同じことなのだ。

いま50代以上の人なら、自主制作のミニコミを作った経験がある人は多いだろう。60代以上になると、当時あった簡易印刷である孔版(俗にガリ版とよばれた)を使って、手作りの雑誌や新聞を作って人々に配った記憶があるひとも多いだろう。このように実は古い時代から「個人メディア」はあったのだ。情報を発信したい人は昔からいたし、そういう人は可能な限りの手段を尽くして、メッセージを伝えようとしていた。

そう、英知を絞り、感性を研ぎ澄ませて、伝えたい相手にメッセージを伝えるにはどうしたらいいかを考えてコンテンツを作っていた。孔版刷りメディアの時代には、そういう真剣で切羽詰まった状況を背負いながら、いかに自分のメッセージを伝えたい相手に伝えるのか、切実な中で孔版を切ったのだ。発信しにくいからこそ、どうやったら伝わるかを真剣に考える。ある意味、誰もが真剣にコミュニケーションを成り立たせるにはどうしたらいいかを考えていた。

このように情報を発信するということに対する敷居が高く、やっている方も必死だった分、結果的にコンテンツにはスカが少なかったともいえる。60年代末の新宿には、手製の詩集を売っている若い女性がいた。街頭で詩集を売るというのは、いかに時代とはいえコミケで自作の薄い本を売るよりよほど勇気と根性が求められる。その分、若気の至りというのは確かだが、エネルギーとテンションに溢れていた。

政治運動の機関誌のように一方的にプロパガンダを押し付けるべく、強力にバラ撒いてプッシュする媒体もあったが、基本的には送り手の方も「食えないものを出して、食中毒になっては困る」ぐらいの意識はあったので、最低限のクォリティーはキープされていたということができるだろう。読んでくれることが大切なことは活動家もわかっていたので、決して押しつけがましいところはなかった。

その反面、インタラクティブメディアになってからは、何の意識も決意も持たずに、形式的には情報を「発信」できてしまう。しかし、それは本当の意味での発信ではない。ワガママなモノローグが世界にさらされるというのは、単にトイレや風呂場がガラス張りで、外から丸見えというのと同じレベルの現象である。それはそれでわかっていてやるのであれば全く問題はないが、それをコミュニケーションと勘違いしてしまっては大間違いである。

独り言とコミュニケーションは、全く異なる。それがわかっているかどうかが、情報化した社会となった21世紀では問われるのだ。インスタ映えがする派手なスイーツをアップロードすれば、それなりにリアクションがあるし、それを検索する人もいる。しかし、それはスイーツを提供しているショップと、検索した人のコミュニケーションでしかなく、アップロードした人はその視線から消えている。この事実に気づくことが、コミュニケーションの何たるかを知るための第一歩だろう。


(20/02/07)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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