社会主義者は不幸がお好き





社会主義者・共産主義者の人々はお題目としての「平等」を唱えることが多い。確かに、彼らは横並びが大好きである。「権利よこせ」も横並び、「ばら撒け」も横並び。基本的に「欲しがる人々」なので、欲しいものが全員に行き渡らないと、自陣営の中で内紛が起きてしまう。それを避ける意味でも、横並びをキープすることは彼等の組織を維持するための至上命題となっているのだろう。

とは言うものの、そういう左派グループの政治的リーダーだってとことん馬鹿ではないので、ばら撒けるリソースが無尽蔵にあるとはさすがに思っていない。ここが財布の大きさについて思いも及ばない支持者達とは違うところである。そこで彼等は、その政治的主張の中に「全員の夢を叶える」ような文言を入れることはない。そこで主張される平等は「最低ラインの確保」とでもいえるようなものになる。

トップはそれでも安泰かもしれないが、こういう路線を敷かれると支持者たちは平等を求めるが余り、「最低ラインからの抜け駆け」をするヤツが出てくることを極度に警戒する。人よりうまくやっている。アベレージより成功している。こういうヤツは違う思想の持ち主以上に許さないようになる。誰かひそかにウマくやっているのではないか。それを相互監視で厳しくチェックするようになるのだ。

社会主義体制が相互監視の全体主義になりがちなのは、上から暴力で押し付けるのではなく、社会主義を求める民衆の中には、そういうメンタリティーがビルトインされているからなのだ。あるいは「卵と鶏」ではあるが、もともとそういう「抜け駆けを嫌う」性質を持った人々から構成される国は、社会主義体制と親和性が高くなってしまうという見方もできるかもしれない。いずれにしろ、思想やイデオロギー以前にこの二つは共通性が高い。

こうなると「誰かが幸せになる」のがもっての他なのはもちろん、「みんなが幸せになる」ことさえ許せなくなってくる。これは哲学としての共産主義の成立を考えると、極めて不思議な現象である。ヴィジョナリストとしてのカール・マルクスが主張していたのは「生産力が低く国民的富が少ない状態では、限られた国富を各階級の国民が奪い合うことになり不幸になってしまうが、生産力があがって豊かな社会が実現すれば、国民皆に充分な富が分配できる」ということである。

豊かな社会においては貧富の差はなく、だれもが平等になる。元来のマルクスの考えは、こういう楽天的なユートピアである。マルクス自身が直接書いた物を読めば、この考え方は良くわかるはずである。ところがいつも言っているように、これが哲学ではなく政治的イデオロギーの道具とされてしまったところから、ボタンの掛け違いがはじまったのだ。当時のドイツの貧しい労働者層へのアジテーションの理論として換骨奪胎されたのだ。

その結果、最も望ましい社会とは「みんなが不幸になって歯を食いしばり合う」ことになってしまった。そして、社会主義者・共産主義者たちはその状態を以って「平等」というようになった。まさに「欲しがりません、勝つまでは」のメンタリティーなのだが、ポイントは「勝つ日」は永遠にこないところにある。マルクスの思想は「みんなで頑張れば、理想社会は必ず実現できる」というものだったにもかかわらず、だ。

だから当然「自粛」が大好きである。とにかく不幸になって我慢するのが大好きという「ドM」な方々なので、やりたい気持ちを封印して悶々と自粛するのが最高の自虐的快感に繋がるのだ。このあたりは昭和10年代の日本で、労働者や農民の支持を集める無産政党が、経済の振興ではなく、戦争を起こすことを熱烈に支持した理由にも通じている。赤い華族と呼ばれた近衛文麿が作った大政翼賛会に労農政党が喜んで参加し、戦争の推進者となったことからもこれは良くわかる。

というより、不幸が大好きという「ドM」な国民性を持っている国にしか社会主義政権は出来なかったという歴史的事実が、なによりの証明であろう。鉄のカーテンの内側にあったのは、東欧のスラブ系とか東アジアといった「根暗な国」か、アフリカや南米の貧しい国だけであった。不幸が好きな人が、政治としての社会主義を信奉する。となると、このシナリオを最初に考えたエンゲルスってのは、よほどマゾヒスティックな嗜好性をもっていたのでは。一度、彼の性癖について研究するをいいかもしれない。


(20/03/27)

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