専門家のワナ




新型コロナ問題の本質は、あるレベル以上の科学・医学の知識がないと的確に理解することが難しいだけでなく、なんらかの判断や提案を行うには、政治や経済といった社会科学的な素養も必要になるところにある。新聞にしろテレビにしろ、日本の報道関係者はそもそも科学音痴ばかりである上に、タテ割りで異分野のことにはめっぽう弱いという人ばかりであり、一番苦手としている領域である。それゆえ勘違いや思い込みに基づく「トンデモ報道」の花盛りとなってしまう。

その結果呼ばれるゲストや取り上げられる発言も、的を射ていたり、極めて的確な指摘をしたりしているという視点ではなく、センセーショナルで刺激的なコメントかどうかという観点が優先されて選ばれるようになる。タレントやコメンテーターの発言の質が悪かったり間違っていたりしても、もともと当人の理解力や判断力が足りないがゆえに起こった「事故」ということも多い。これはいわば「無知の涙」であり、当人を責めるべき問題ではなく、そんな人をブッキングしたスタッフのほうの罪である。

もちろんワイドショーのタレントやコメンテーターの無責任な発言も、それなりに悪影響があり、こういうご時世とは害悪以外の何物でもない。しかし極めて問題が大きいのは、 ある分野の専門家が専門外の領域の問題に関しても偉そうに理屈を並べて語る現象である。読者・視聴者は「何とか大学教授」とかいう肩書きはわかっても、どの分野の専門家なのかわからない。そこに付け込んで実は「トンデモ」な内容を滔々と語るというのは極めて悪質である。

さらに、このタイプの中には「求められたから、ついリップサービスで専門外のことも語ってしまった」という過失形ではなく、この機会を利用して売名行為を行ったり、世間を混乱させて自分のプレゼンスを示そうとしたりする、確信犯的な「センセイ」も少なからずいる。元々こういう内容がないのに表面的に権威を取り繕って存在感を出す、「カキワリ形」や「メッキ形」の学者というのは、学会には一定数いる。そういう連中を引っ張り出すと、ここぞとばかりに騒ぎまくることになる。

もともと、学識者の知識や経験というのは、それを的確に理解できるプロデューサーがいて、そのディレクションの元で利用して初めて異分野に適応できる。本人に異分野のことを直接考えさせてはいけないのだ。自分の経験においては、ビッグデータと共に注目が集まっている「データサイエンティスト」をマーケティングプランニングにおいてどう利用するかという事象などが、その的確な事例となっている。

データサイエンティストは数学的統計分析の専門家であるし、コンピュータでのデータ処理の専門家でもある。その専門的見識を使う側がうまく使うことがビッグデータの分析などでは重要になっている。しかし彼らは生活者インサイトの専門家ではないのはもちろん、一般的なマーケターほどにも世間的な常識を持ち合わせていない、狭量な技術の専門家であることが多い。彼等は的確に分析するが、そもそもの問題意識を持っていない。

データを分析して判定することは任せるべきだが、そもそもその分析により検証すべき仮説は依頼する側がキチンと構築しなくてはならない。まさに彼等はコンピュータやデータベースと一体の存在であり、コンピュータやデータベースを利用する際には、利用する側がきちんとした問題意識を持っていないと何も結論が出てこないのと同様、使う側がある程度の見取り図を持っていなくては意味がない。だから彼等に白紙からデータを読ませると、とんでもない結論が出てくる。

マーケティング・コンサルティングの領域では、データサイエンティストの「発見」を揶揄するジョークとして、「大発見があります、人類の半分は小便器を使ったことがありません」というのがある。女性は小便器を使えないということを理解していれば、こんな見識はビッグデータを元にスーパーコンピュータのリソースを使いまくった結果としてアウトプットしなくても最初から分かっている。実はデータサイエンティストに任せて出てきた結論というのは、このレベルのものが多いのだ。

生活者インサイトの大事なところは、こういう「世の中の理」をウォッチングからデータ分析の前に把握できてしまうところだ。あくまでも仮説レベルでは結論が出ていて、それが妥当なものかという検証や、その市場規模がどのくらいのものになるかという予測のツールとしてビッグデータを利用する。少なくともマーケティング・コンサルティングにおいては仮説というか土地勘というか、ある程度の目星が付いていない状態でデータをぶん回しても「糠に釘」というのが基本である。

昨今、ワイドショーで医学統計の専門家の人がいろいろ言っているが、彼の専門はパラメーターに合わせて数式を演算し、その結果を出すところにある。パラメーターそのものの妥当性や現実性は彼の専門分野ではない。統計の専門家としては上限値、下限値を算出したいという気持ちはわからないでもないが、それは単に数学的な可能性を示しているだけである。

単純な例で言えば、「y=ax」のグラフは定数aの値により緩やかにも急激にもなる。このくらいは中学の数学の正比例の問題なので誰でもわかるだろう。たとえばある川の流域に降った雨量と、その川の水位の関係などはこれに近い。ではその場合、この定数aの値はどうやって決められるのか。それは、実測値とか経験値とか、このグラフの計算という数学的なものとは全く別のプロセスで決まってくる。だから絶対にありえない降水量を前提にした定数を置いて、洪水の危険があると言ってもそれはSF小説の話になってしまう。

このぐらいシンプルなモデルであれば誰でも謎は見抜けるが、複雑なモデルになるとモデル自体がブラックボックス化して理解しにくくなるため、モデルをハンドリングできる人なら、妥当性のある結論を出せるだろうと勘違いしてしまう。しかし、モデルを扱う人がパラメーターを決定する人ではないのは、先ほどのシンプルな例と変わらない。適切なパラメーターは、数学モデルの専門家でない人が決める必要がある。

数学モデルの専門家は、極端なパラメーターを入れることで、自分がこの世界の可能性の全部を支配する全知全能の神になったかのような勘違いをしやすい。それは数学的にはどのパラメータを入れたモデルも、モデルとしての正確さは同値だからだ。これは科学一般に言えることだが、こういうおかしな全能感というのは自然科学にはつきものであり、それが得たくて科学者になる人もいるくらいである(まあ、そういう人がマッドサイエンティストになってしまうのだが)。

相手の問題点を指摘しそれを論破するには、相手と同レベル以上の専門的知識が必要になり、誰にでもできる話ではない。しかし、肩書きに騙されずなんでも鵜呑みにしないという予防策なら、誰でもできるだろう。今必要なのは、マスコミの情報に接するときは、まず「フェイクなのでは」と疑ってかかることである。複数の情報源に裏取りし、妥当性が見出せて初めて信用する。そのぐらいの気持ちが大切である。まあ、新聞を読まない、テレビを見ない、というのが一番手っ取り早くて確実ともいえるのだが。



(20/04/24)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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