役人はITを理解できないのか




会社をやっていると、源泉徴収分の地方税を毎月納めなくてはならない。資金力があれば一年分前納ということも可能だが、さすがにそれはなかなか負担の重い支出となる。で毎月払うことになるのだが、これが各地方自治体ごとの専用納付用紙を使わなくてはならない。他の会社関係の振り込みは全部オンラインで処理しているが、この関係だけは現金を持って金融機関の窓口に行かなくてはならない。

毎月払い込みの日が来る度に、役所とITの相性の悪さを痛感する。というより、そもそも予算主義でコスト意識がなく、事後評価がないからPDCAという考え方もない組織だから、無駄を悪と捉える発想が出てこない。それどころか内容よりも形式要件重視という形式主義で動いているので、手間が多く無駄が多いことは、より高度でよい作業のやり方だということになってしまう。

役所というと、申請書の用紙をダウンロードすると良く見かける「エクセル方眼紙」というのも、役所特有の文化だ。民間の発想なら申請書で一番大事なのは中身のデータだが、役所の手にかかると印面のフォーマットの方が重要になってしまう。データの中身ではなく、形式要件の方が大切という官僚文化をまさに体現している。百歩譲って書類の体裁が重要なら、ワードのドロー機能で作ってくれれば、データをそのままコピペできるのだが絶対にそうはならない。

役所というのはどうにもITと相性が悪いようだ。あたかも役人はITを理解できないかのようである。もちろん皆さん秀才ぞろいなので、それなりにお勉強して知識としてはITがいかなるものか理解しているとは思う。霞ヶ関の官僚は、何でもIT化にこじつけて予算を獲得したりしているぐらいだ。であるならば、わからないのではなく、避けているとしか思えない。あたかも宗教上の理由からの禁忌のように、ITを忌避する傾向が強い。

役人にはキャリアとノンキャリアがあるが、そのどちらもがそれぞれの理由からITとの相性が悪い。キャリア官僚は、中央集権であるがゆえ、そのバラ撒きの蛇口を握ることによって生まれるの利権をこよなく愛する。企業で言うバリューチェーンが長ければ長いほど、その間で「抜ける」利権が増えてくる。だから分散処理などもっての外だし、機能的・合理的になるのも善しとしない。

無駄の多い中央集中型がなにより大事であるから、問題が発生する場所で解決を図ることなどありえない。地方に交付する金は、国税ではなく地方税で徴収すれば手間も少ないし地方自治体の裁量も増えるが、それは中央官庁の利権が縮小することを意味するため絶対にありえない。国全体の利益や最適化などは彼等の頭の中にはなく、あるのは単に省益と天下りの利権だけなのだ。

一方現場のノンキャリは、作業フローに無駄が多いがゆえの、楽でみんなが分け前に預かれる手間の多い仕事のやり方をこよなく愛する。彼等は効率よく仕事をするのが嫌いだったり苦手だったりするから、そもそも公務員を選んでいるのだ。田舎の村役場とか行ってみればすぐにわかるが、本当にわざわざ手間を増やして仕事をした気になっている状況が良くわかる。それは「仕事」ではなく、「ごっこ」というのだ。

ITの進歩を見てゆくと、技術の進歩とともにコストのボトルネックが変わり、集中処理と分散処理とを繰り返す傾向が強い。大型コンピュータによる集中処理から始まったコンピューティングは、パソコンの登場以来インテリジェントな端末をネットワークで結ぶ分散処理が広まった。しかしモバイル端末の普及とともに、クラウドという名の集中処理がもてはやされ出したのが昨今である。

昔のメインフレームとか、クラウドのビッグデータとか、中央集中型の処理は官僚とも相性がいい。しかし、それは回線や機器のコストの問題だけである。ドッグイヤーのスピードで技術が進歩しているから、次々最適な状況が変わるのだ。であるならば、ある意味官僚組織・行政機構もある意味人間系による情報処理システムなのだから、情報処理技術の進歩に応じ、その時代時代毎にコスト面で最適なモノを選べばいいはずである。

ここで本質が見えてくる。集中処理を否定することは、自分達の存在を否定することと同値なのだ。これでは改善されるはずがない。1960年代に大型コンピュータによる集中処理が銀行のオンライン化など大きな功績をもたらしたように、戦後の復興期、高度成長期には中央集中の官僚システムがそれなりに効果があったことは認めよう。だがそれは半世紀以上昔のこと。もはや守旧派も通り越して、腐敗した汚物でしかないと言っておこう。



(20/05/01)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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