いじめ・差別の心




昨今、新型コロナ騒動が喧しくなるとともに、「自粛警察」なる困ったちゃんがリアルな世界でも登場してお騒がせとなっている。要は「自粛は正義」を盾にして、相手を執拗に攻撃しまくる人達である。その対象は、もともと自粛する必要がない業種や行動にまで拡散している。彼等は真の正義感から注意しているのではなく、マウントを取りたいからこそその方便として自粛を持ち出しているに過ぎない。

この心理の構造は、SNS上で識者や有名人の発言を引用し、それを正論として笠に着て、他人を叩くヒトたちとうり二つである。匿名でしかマウントが取れないというところもそっくりである。というよりこのような心理構造は普遍的なもので、SNS上では比較的自分たちを正当化するために使える方便が多かったし、簡単に他人の発言に乗っかれるシェアやリツイートという機能が実装されていたため、突出して目立っていたに過ぎない。

それが新型コロナ騒動という、なんだかよくわからないがみんな混乱して恐怖にさいなまれているものがリアルな世界でも登場したので、ここぞとばかりに無意味にマウントを取りたがっている人達の心に火が付いたというべきであろうか。ココロもフトコロも貧しい人達の心の中には不平不満ややっかみが充満している。それを誰かに向かって暴力的に発散したいと思っている人達は結構多いのだ。

「自粛警察」とは、こういう人達が自分達の憤懣を発散するために、「正義」の名の元に同じ穴の貉の相手を叩いて鬱屈を晴らしている現象。「みんなで自粛しよう」とか、ある種「正義」が見えやすいと、そこから外れた人は叩きやすいし、叩く罪悪感もない。文化大革命の時の紅衛兵が「造反有理」の名の元に、何でも屁理屈でこじつけて叩きまくったの全く同じ構造である。集団ヒステリーの発散といってもいいだろう。

もともとマウンティングというのは、ニホンザルなどの集団生活を送る猿の中でオスの順位を明確化するために行われていた行為であることからもわかるように、ある種類人猿の性である。多分人類がホモサピエンスになる前の原人の頃からやっていた行為であろう。類人猿の間は、実際の力の優劣が反映されたが、知的能力が格段に高まった人類においては、情報の力を活用することにより、偽装のマウンティングが取りやすくなった。

実は、この「偽装のマウンティング」への願望こそが、いじめや差別を生み出す原動力なのだ。学校のクラスなどで不満の多い弱い立場の人達が、マスという数を背景により弱い立場の人をいじめたり差別したりしてストレスを解消する現象は、いじめられっ子に対して「クラス全員」という匿名でマウンティングすることで、自分達の方が上なんだと安心する現象に他ならない。多数による匿名のいじめは、自粛警察と全く同じルーツなのだ。

差別も同じである。いつも指摘していることだが、差別というのは「目糞・鼻糞」の類の、端から見ればほとんど区別がつかない者同士の間で最も激しく見られる現象である。つまり「最下位争い」をしているからこそ、なんとか相手に対してマウントを取り、相手を最下位に蹴落としてやろうとして引き起こされる。いわゆるブービー賞と同じで、最下位争いは醜く熾烈なのだ。ここでもまた「匿名の多数」を取った方が差別者となり、少数の側が被差別者となる。

いつも主張していることだが、このようにより弱い立場の相手を、「正義」の名の元に攻撃するいじめや差別は、残念なことだが極めて人間の本性に根差していることになる。マウンティングのルーツを考えれば、高度な知能を持つ類人猿の行動には源初的な「いじめ」が見られるかもしれない。現在の人類と同レベルの知的能力を持っていた原始人の間では、当然「いじめ」があったと思われる。確かに、ニホンザルの集団では、シカトされたオスの「はぐれザル」がしばしば見られる。あれこそ、サルの世界のいじめられっこなのだろう。

「いじめは悪いことだからやめましょう」といっても、決していじめがなくならない理由はここにある。いじめや差別をなくすには、それが人類という生き物が必然的に持っている性に根差していることを理解し、それを認めた上でどうやれば「その因果な性癖と折り合いがつけられる」社会構造を実現できるかを考えなくてはいけない。世界中でいじめや差別が顕在化している新型コロナ騒動の今は、そのいいチャンスと考えるべきであろう。



(20/05/08)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる