「拠り所」の二つのタイプ




どうやら人間には、自分が寄って立つ拠り所の在り方によって、二つのタイプがあるようだ。それは理屈や理論が拠り所となっているタイプと、美学や信念が拠り所となっているタイプである。21世紀に入り社会の構造が産業社会から情報社会へと進化して、この違いが着目される素地が出来上がった。そして情報化が進めば進むほど、この違いは大きい問題として取り上げられるようになるだろう。

これはその人が活躍する領域や分野とは関係なく、生まれながらのタイプの違いである。今までは「理系」「文系」「芸系」など、得意とする分野によるタイプ分けこそあったが、こういう思考におけるソフト的プロセスの違いは重視されなかった。これは全く位相が異なる問題であり、相互の関係はない。だから理系の学者でも美学や信念が拠り所の人はいるし、アーティストでも理屈や理論が拠り所の人はいる。

そしてこれはまさにタイプの違いであり、どっちが上だ下だというものではない。ここには価値の違いはインクルードされていない。ただ、タイプによって適材適所があるので、これを間違えると不幸になってしまうということはある。そのワリに今まで着目されてこなかった「違い」なので結果的にアンマッチングが起こり本人が苦労することになったということは結構あるだろう。

このように今までの近代社会では、このような人間類型の違いがあるということが、余り重視されてこなかった。それは偏差値に代表される「点数」のような定量的な指標では、この両者を峻別することができないからだ。それは点数の違いは結果の違いしか示さず、その結果を導き出したプロセスの違いは反映されないためである。そして拠り所によるタイプの違いは、プロセスの部分でしか反映されない。

もちろん、理屈や理念を拠り所とした方がスマートに解ける問題や、美学や信念を拠り所にしないと卓越した結果を得られない問題もないわけではない。しかしこと学校教育のような場面においては、どちらのタイプにおいても、それぞれの強みを生かしていい点数をあげる、すなわち高い定量的評価を受ける人はいる。がっちり勉強したり練習を重ねたりして良い点を取る人もいるし、鼻歌交じりに結果的に良い点を取ってしまう人もいる。

その両者は、そこに至る発想や道筋が違うのだ。理論や理屈を拠り所とするタイプは、過去の事例を元に、それを徹底的に研究・分析し、ステップ・バイ・ステップで利用できる事例を当てはめて、一歩づつ演繹的に結論や成果にたどり着く。美学や信念を拠り所にするタイプは、自分の求める理想を元にまずあるべき結論や成果を明確に打ち出し、そこに至る道筋をバックキャストで現在に結びつける。

定量評価は結論や成果をスタティックに評価するものであり、同じ結論にたどり着いているのなら、その過程に関係なく同じ評価になる。そしてたとえば数学の問題であっても、フォア・キャスティングでも、バック・キャスティングでも解くことができるのだ。 演繹的にフォア・キャスティングし考えて考えて答えに到達する人もいるし、パッと答えが浮かんでバック・キャスティングでそれを必死に証明する人もいる。

さて、時代は情報社会となった。産業革命で質的転換を遂げて以来、それ以降の産業社会は量的拡大の追求だけで済んだ。量的拡大については、前例主義でもリソースさえ拡大できれば問題は起こらない。逆に「枯れた技術」といわれるように、そこから新たな問題が発生することも防げるメリットもあった。しかし、多様化・複雑化が前提の情報社会は、全てが「前例のない事態」から構成されるといってもいい。

こういう問題に対しては、演繹的にモノを考えても糠に釘である。というより、演繹的にモノを考えるという行為においては、AIを持ち出すまでもなく、人間はコンピュータネットワークにどうやってもかなわない。ネットワーク上に蓄積されたビッグデータの情報を元に、コンピュータで検索・分析したほうが、どんなに記憶力のいい人よりも、より速く・より安く・より正確に、得られる最高の結論を導き出せるからだ。

ここでこそ、美学や信念が拠り所となるタイプが活きてくる。AI時代にAIを使いこなす人材とは、サイエンスやテクノロジーに詳しい人ではなく、自分の美学や信念を拠り所として発想や判断を行うタイプの人間である。これは教育や鍛錬以前の、人間の持って生まれたタイプの問題である。教育も組織も社会も、産業社会とは大きく変わらなくては人類に未来はない。そして、そのカギとなるのはタイプの違いを生かした人材の活用なのである。



(20/05/22)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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