国際政治感覚





西村防衛政務次官が、男性週刊誌でのコメディアンとの対話での発言から、責任を取って辞任した。まあ、確かにあまり品位のある人間とは思えない発言の多い政治家だ。下品なヤジが多かったり、セクハラ発言が多いという意味では、ロクなヤツじゃないと思う。また、次官の責任が高まったおり、閣内不統一というのは連立政権としては問題がある。そういう意味では、辞任は妥当な結果だとは思うが、一つ煮え切らないことがある。それは、この発言がいわゆる「時代錯誤の妄言」とは違う構造を持っていることだ。

彼の発言のポイントは、「核武装についての議論をもっとすべきだ」というところにある。これは至極もっともな論点だ。この論点自体は何も否定されるものでない。議論をして悪いことはないし、議論はしなくてはいけない。臭いものに蓋では、ますます腐ってしまう。気がついたときにはそれこそ、手がつけられなくなっている。現状では、持つも持たないも、いいも悪いも、全く議論しないまま、天の声たる「非核三原則」で、思考自体を封印している状態だ。その状態がおかしいという提言部分については、全面的にそうだと思う。

最初から「核は未来永劫持たない」と宣言してしまうのは、国際政治上、武力以前の問題として、政治的に有効な解決手段を自ら放棄してしまうことになる。持つこと、使うこと以前に、持つかもしれないという可能性が、相手に対する抑止力たり得るからだ。別に持とうが持つまいが、持つ気があろうがなかろうが、それをいわないことが武器なのだ。これはいわば、「相手が勝手に恐れて心配している」いわゆる杞憂状態に追い込むこと。武力も使わない。自分からは何も手出しをしない。それでも杞憂状態なら相手は自滅することがある。政治的な交渉では、これもきわめて有力な武器たり得る。

戦略のコストパフォーマンスということを考えると、実際の武力を持ったり、それを行使したりすることより、ずっといい戦略だ。現状の先進国においては、合理的な判断をすれば、現時点においては核開発をしたところで、コスト的に間尺があわないのは明白だ。そういう意味では、核は持つべきではないだろう。現実の政策としては、ぼくは日本は核を持つ意味がないし、持つべきでないと考えている。それを度外視してまでメンツだけで持てというのでは、現代の国家たり得ない。結論としては持たないのが良いというのはいうまでもない。

だがそれは、あくまでもあらゆる可能性を考え、そのメリット・デメリットをクールに比較した結果、持つべきではないと判断できるからだ。そのためにも、持つ意味を考える議論は絶対に必要不可欠だ。倫理的な意味でアプリオリに「核は持ちません」というのでは意味がない。いろいろな戦略を比較検討の結果、「戦略的に意味がないから持たないで」という結論に達したのでなくては、税金を払っている国民を納得させることはできない。その意味では、始めに非核三原則ありきは絶対におかしい。戦後の動乱期ならいざしらず、今となってはかえって無意味だし不気味だ。

そもそも前言を翻すことは、国際政治上もっともいけない。日本の政治家や役人は、これをなんとも思っていないようだが大間違いだ。これがわかっていないから、国際社会で信用されない。なにごとにつけ、日本の政権は、安易に言い切りすぎるのではないか。適当にその場を凌げば後から取り繕えると思っているのだろうか。原則というレベルでは、こういう戦略的兵器は、持つとも、持たないともいわない。これが国際交渉の常道だろう。この辺の「国際性」のなさはマスコミも同様だ。特に朝日新聞の「井の中の蛙主義」はどうかともうのだが。

常にあらゆる選択の可能性を担保しつつ、実際にはその中でいちばん合理的かつ、効果的な戦略を選択する。これが、国際政治上一番正しいスタンスだ。明確なことをいわなければ、相手は想像して行動する。まさにポーカーフェイスだ。いったいどういう手を打ってくるのか、皆目わからない。こうなると、次の行動については相手によって判断が異なってくる。したがって、あらゆる可能性を配慮する必要が生まれる。相手は必要以上に体力を消耗する必要に駆られるし、これが交渉力を生むことになる。

冷戦時、旧ソ連の兵器は、極めて防衛的色彩の濃いものばかりであったことは、ミリタリーマニアならすぐわかった。強力な火力のワリに、積載量や行動範囲が極端に少ない。これは、航空機も戦車もそうだ。広い大陸の国土を、効率よく侵略から防衛するために特化した兵器ばかりだ。だが、一般のヒトにはそれはわからない。西側の産軍共同体からすれば、防衛的ではつまらない。そこでソ連の兵器をなるべく強力に見せて、侵略の危機があるように言えば、軍拡に繋げることができる。

もっとも、自分の兵器を実態以上に過大評価してくれることは、旧ソ連にとってメリットにこそなれ、損があろうはずがない。ここに妙な利害関係が生まれ、旧ソ連の軍隊は、実態以上に過大評価されるようになった。それが張り子のトラだったのは、冷戦終結後のロシアを見れば明らかだろう。国際政治とはこういう世界なのだ。いう必要がないことはいわないのが原則。いわない方が自分を高く売れることはいわないのが原則。いわなくてはならなくなってはじめて、本当のことをいえばいい。それでもウソは言っていないのだから。

この戦略がウマいのは、なんといっても北朝鮮だろう。はっきりいって、直接他国の脅威になるような形で戦力は持っていないし、持つ国力もない。なんせ、まともに喰うものすらない国なのだ。しかし、「何をするかわからない国」というイメージを逆手にとり、完全にブタカードでも、ポーカーフェイスで何かせしめてしまう。国際交渉の費用対効果を考えれば、コストパフォーマンスNo.1の国だろう。日本なんかより、はるかに国際交渉に長けている。もっとも、なにも失うものがないから強いともいえるが。

日本も、かつての侵略戦争のように、一旦事が起こると何をするかわからない国というイメージがせっかくある。日本の軍国イメージは、対アジアの部分では曖昧に残してはいけないと思う。だが、対西欧、対アメリカという部分においては、これが最大の交渉力になる。ある種、向こうが実態以上に実力を評価し、勝手に恐れてくれるというのは、こんな都合のいいことはないのだ。実力行使がない分平和的だし、コストだってかからない省エネ戦略だ。

日本が中国と組んでアメリカに攻めてくる悪夢。これでうなされてアメリカが落ち着いて寝られなくなる状況に持ち込んではじめて、国際社会における日本のプレゼンスは生まれてくる。こういう地政学的な国際政治の議論は、本当に日本人はヘタだ。このような問題をマトモなレベルで考えていたのは、歴史的に考えても、いろいろ毀誉褒貶のあるヒトだが、石原完爾氏ぐらいのものじゃないのかな。近代日本では。少なくとも彼は日米対決は不可避と考えていたが、日中の戦争状態は最後まで避けようとして、陸軍の中枢と対立し、遠ざけられたわけだし。その部分は、ぼくはとても評価し尊敬しているのだが。

(99/10/29)



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