多様性をもたらすもの





多様性とは誰か絶対的な存在から与えてもらうものではない。同様に、誰か強いものによって守ってもらうものでもない。全ての人々が一人一人、自分の足で立ち、自分の力で自分らしさを守ることから始まる。これができてはじめて、違う他人の存在を認められるようになるし、世の中の多様性を尊重できる。自分の力で実現する権利なのだ。これをはき違えて「誰かにお墨付きを貰いたい」となるから、多様性を主張しているようでも違う意見の他人に寛容になれなくなる。

与えてもらう多様性では、一人一人が対等な多様性は実現しない。与えてもらう相手との間に、絶対的な非対象性があるからだ。「神の前の平等」における「神」のように、次元の違う存在が少なくとも一つはできてしまう。そういう存在を認めること自体が、実は多様性と矛盾する。仮にそれを「神」と呼び、その存在が唯一だったとしても、そういう与えられる平等では「隣の芝のほうが青い」という妬みが発生してしまう。

自分の上に立つ存在を認めたり、認めるどころかそれに守ってもらったり、それからバラ撒いてもらったりして自分の居場所を作ろうとすれば、その「神」たる存在との関係性の強弱から、完全にヒエラルヒーの上下関係が出来上がってしまうのは必然である。左翼やリベラルの語る「弱者の味方」の問題点はここにある。ある意味、「助けてやるが、お前らは自立できない二級市民だ」という扱いである。決して対等な人権を持つものとして扱っていない。

しかし、かつての鉄のカーテンの内側の共産圏での少数民族の扱いがどんなものであるか考えれば、そこに待っているものが何かはスグにわかるであろう。ある意味、それはもはや人間としては見ていない。レッドブックの絶滅危惧種の動物を動物園で保護するような扱いである。完全に「別のモノ」として扱っている以上、このようなやり方からは多様性も平等な機会も全く生まれない。

それでも毎日エサと棲家がもらえて何もしなくても喰う心配がなければいいという人がそういう誘いにホイホイついてゆく。人生それでいいというのなら、それは勝手にやってくれというしかない。それはそれで生き方の一つではあるだろう。しかし、人間としての尊厳を大切にし、自分らしく生きてこそ自分の人生だと考える人にとっては、それでは「死」と同じである。まさに多様性とは人間性を認め合うことでもあるのだ。

人間として対等に扱うということは、すべての機会に対して平等に扱うということである。これは、リスクに対しても特別扱いしないので、キチンと自らリスクヘッジを掛けろということになる。もちろん、半人前の人間としての扱いでいいからバラ撒きにすがって楽しておいしい思いをしたいと考えてもいい。価値観の多様性を認める側からすれば、自分の価値観を他人に押し付けず、他人に迷惑を掛けない範囲でやるのなら一向に構わない。

だからこそ、すがっている相手から与えてもらえないからと言って、文句を言ったり暴力をふるったりするのは論外だ。バラ撒いてもらえるのは権利でもなんでもない。単なる結果である。それに対してよこせと文句をいうのは。それは欲しいものが買ってもらえなくて駄々をこねている幼児のマインドそのものである。まあ、その程度の精神構造なのでそういう選択をしてしまうということなのだろうが。

多様性を認める側からすれば、「甘え・無責任」な生き方も、他人に迷惑を掛けない限りにおいては充分に認められるべきと考える。ただ「自立・自己責任」で生きている人の方が結果的に成功したからと言って、その足を引っ張ったり、俺たちにも成功の成果よこせとゴネて奪ったりするのは言語道断である。成功した側は、リスクを取ったからこそリターンがあるのだ。ところが、「甘え・無責任」な人達がマインドがお子様なので、しばしばこういう物言いをしがちである。

リスクを取らないのは自由だが、その結果得られないものがあったとしても、それは自業自得というもの。それも含めてリスクを取らなかったのだから仕方ない。宝くじを買って外れた人が当たった人を妬むというのは、あまり褒められたことではないが、まあその気持ちはわからないでもない。しかしリスクをとらない(=宝くじを買わない)のにリターンだけ欲しがるというのは、全くの逆恨みでお門違いである。

人生では、常にリスクに賭けている人がいる。そういう人は大きく失うこともあるが、大きく得るものもある。シュンペーターの「企業家精神」とはそういうものだ。そして「企業化精神」は誰にでもあるものではない。そして、企業家精神の対極にある人ほど、共産主義・社会主義に憧れる気持ちもわかる。

別に「甘えたい・ぶら下がりたい・家来になりたい」という欲望は、決して間違っているものでも悪いものでもない。人間としては自然なものだし、そもそも持って生まれた能力の限界がある人間としては当然の欲望である。犬・猿・雉は、桃太郎というリーダーに使われてこそその能力を発揮できる。別にリーダーの桃太郎だけがスゴいというわけではなく、それぞれ活躍の場はあるのだ。

多様性を認めることは、そういう考えを持っている人にも居場所がある社会を作ることである。ただ、結果としての「差」があることだけは認めて欲しいところだ。リーダーとしての資質のある人間と、それがない人間との差は歴然としている。誰にでも居場所もあるし、どんな立場の人間も互いに強いることはないが、そのを担保する条件として「差」があることだけは認めて欲しい。あるいは、全員同類と扱わないで欲しいということである。

マルクスが理想のユートピアとして描いた未来社会は、高度な生産力を持ち高度に経済が発展しているからこそ、社会の一人一人が富の恩恵に預かれる社会であった。そしてそれは、貢献に応じて分配されるものの、貢献が少なかった人でも充分な分配があるという社会である。まさに企業化精神がある人が次々と起業し、経済を牽引して行けば、その恩恵は誰にも回ってくる。お互いに足を引っ張らなければ両立することができ、多様性が担保されるのだ。


(20/07/17)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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