上から目線の落とし穴





インテリやリベラルといった高学歴・意識高い系の人は、未だにキャズムを理解していない。というより、こういう知的ハイブロウな方々のものごとの基本的な捉えかた自体に問題があり、キャズムが発生することを認められないのだ。学問的なことのみならず、社会でも経済でも政治でも、昨今起こっている問題の多くは、ほとんどがそこから引き起こされたものである。ある意味ギリシャ・ローマ以来の学問の体系が制度疲労を起こしているというべきだろうか。

高等な学問における知の体系は、そのほとんどが歴史の中で演繹的に積み上げられてきた理論によって支えられている。すなわち「正しい拠り所」が歴然とあり、それがすでにエスタブリッシュされているところからスタートする。次のステップとして取り組むべきは、それをそのまま受け入れて発展させるにしろ、その問題点・矛盾点を解き明かしより高度な理論に研ぎ澄ますかどちらかとなる。これを繰り返してピラミッドのように積み上げたのが、現代の学問である。

哲学や法学といった形而上学的な「高尚な理念」を扱う学問は、皆このような構造を持っている。このためこういう学問やってきた人は、過去の学問体系には極めて詳しいが、現実に起こっている現象を軽視する傾向が強い。「正しいのは、現実ではなく理論である」という考え方だ。この結果、素直に現実に起こっている事象を見ることができないし、現実がどうなっているかを知ろうとさえしない。近代社会がスタートして以来約200年が経つが、その間はなんとかこのやり方が通用していた。

その一方で、20世紀になってから興隆した工学やマーケティングといった、ヨーロッパでは学問とされない実学の分野では、実証・経験といった現実の理を重視してきた。理屈ではなく現実はどうなっているのかを見極めることで、正解かどうかはさておき、どう対処すれば最も適切な解が得られるのか。これを事例を積み重ねるなかから解き明かして行くのがこれら実学の特徴である。従って実学においては「世の中の変化」は最も重要であり、これをいち早く察知し対応することが求められた。

この差が、キャズムの向こう側を見れるかどうかという違いとなって出てきた。キャズムというのは、意識の高いリーダーを一般のボリュームゾーンがフォローしなくなることによって引き起こされる。言ってみれば「水が高きから低きに流れない現象」である。今まで正しいとされてきた流れ、古典物理学の重力のように今まであった上と下の関係が崩壊することによって引き起こされる。これは高等な学問の公理自体を否定する現象であり、とても認めるわけにはいかないのだ。

とはいえ、長らく「追いつき追い越せ」で西欧先進国の先端技術をベンチマークしてきた日本では、実学系の学問でも「ありがたく学ぶ」ものであり、当の西欧においては教科書的な理論も、自らの実務経験から得たノウハウも共に現場の判断を行う上では対等の価値があるものとされたにもかかわらず、教科書の言葉を金科玉条のようにありがたがる形而上学的な「学問」になってしまった。

かくして、日本においてアカデミックな世界は、ことごとく「上から目線」の世界となってしまった。日本の学界では、知識に溺れて現実を見ないことが「良い事」「正しい事」とされていたのだ。そして各々のタコツボの中を深堀りし続けることで、どんどん現実と乖離し、学問のための学問になってゆく。かくして学界は家元制度のような伝統芸能と化してゆく。それを守り維持してゆくためには、アカハラも日常的になってしまう。

それでも産業社会の20世紀においては、このやり方もある程度通用した。それはベンチマークすべき相手が存在し続けていたからである。しかし情報社会になると、産業社会のような競争市場において手練手管で勝ち残るやり方は全く通用しなくなった。レッドオーシャンでの競争は、みんなが敢えて競争市場に参入して生き残りをかけていたから成り立ったのだ。みんながみな自分のブルーオーシャン市場に閉じこもり出すと、自分も自分独自の市場を作らなくては生き残れない。

自分のブルーオーシャンを築くためには、現実を直視し、その実像を正しく把握することが第一歩となる。上から目線では、もはや現実の事象は何も見えないし、正しい判断をすることはできない。自己撞着的ではあるが、上から目線にはそもそも構造的な問題があり、そこから脱却することが非常に難しいのだ。それは上から目線を取っている限り、上から目線が受け入れられなくなった理由は絶対にわからないことによる。

かくして「啓蒙」という発想にとらわれているインテリ層は、社会的に無用の長物となってしまった。フェイクニュースといわれる新聞報道などのジャーナリズムが信用されないのも、理論的正しさに固執して現実から乖離してしまうインテリ体質が原因だ。現実に起こっていることをみんな支持しているのに、それは間違っていると言い切ってしまうインテリ啓蒙主義は、人々が見栄を張って背伸びをする必要がなくなった時点で、その命脈を断たれた。

カビの生えた「知性」が忌避される理由もここにある。ポストキャズムのロードサイド/マイルドヤンキーが社会の主流となった時代でも、理性的な判断は否定されているわけではない。ロードサイド族のオアシス「ショッピングモール」でのマーケティングの基本の一つとなっている「コスパ重視」などというのは、明らかに理性的判断である。理性的・合理的なものが否定されているのではなく、知の伝統を盾にした権威主義が忌み嫌われているのだ。

情報社会の21世紀になって20年。知の伝統という既得権を手放したら「裸の王様」になってしまうインテリ・リベラルな人達が、そこに固執し何とか命脈を保とうとする理由は良く判る。しかしそれは無駄なアガきである。アガけばアガくほど、余命は短くなってしまうのだ。もうそろそろデッドエンドの象牙の巨塔はやめにして、歴史の石積みの中にその「知」埋め込むことで、これからの人類社会の礎として「知の力」を使うべきではないだろうか。


(20/07/24)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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