あの頃のまま





高校生の頃に見た学園の景色と、そこに生息していた友人たちの特徴は、誰でも覚えているだろう。立ち回りが下手な分、自分を押し殺して教師にへつらう偽善的な人間。面従腹背でウマくすり抜けて、表と裏の顔を使い分ける人間。真面目なだけでもうどうしようなくつまらない人間。一匹狼でクリエイティブな人間も、すぐにつるむ組織人な人間もいた。ティーンズの少年たちとはいえ、いろいろな人間がいたし、そこにはそれら多彩な仲間たちが織り成す不思議な小社会があった。

それから幾十年、紅顔の美少年も、オッサンになりジジイになった。同窓会が行われるとそこに集うのは、禿になり、白髪になり、メタボになり、その風体が大きく変わったヤツばかりである。トッちゃん坊や的な老けてたヤツが、全く変わらない分、逆に実年齢より若く見えることもある。中には、いつまでたっても身も心も若々しいままで、本当に変わっていないヤツもいる。外見は年月とともに変わってしまうのだ。しかし一旦会話が始まると、一瞬にして時を越える。

絶妙に突っ込むヤツ、とにかく絡みまくるヤツ、ちょっと素っ頓狂に外すヤツ、ニコニコしながら脇で聞いてるむっつりスケベなヤツ。話題もいつしか昔話になってしまうが、性格というか人間性というか、人としての本質は全く変わらないのだ。そうなってしまうのは、年月を経た今でも各人の個性はほとんど変わらないからである。まさに、人間としてのあり方はほとんど高校生のときから変わらないのだ。それがあるからこそ同窓会は面白いし、盛り上がると話が尽きない。

もちろん人生を重ねた分、ノウハウや経験値は貯まってくる。最適解を見つけたり、リスクを回避したりすることに関しては、若い頃の無鉄砲さとは違って、それなりに大人になっている(なっていないヤツもいるが)。が、人間のOSというか、基本的な部分はほとんど変わっていない。昔と比較することで、かえってその人の変わらない本質が良く見えてくるぐらいだ。それは人格がその頃までに出来上がってしまうからだ。それが意味するものは、何だろうか。

「三つ子の魂、百まで」とは昔から言われてきたことだが、それほどではないにしてもティーンズの頃に人格が形成されるという考え方は、コーホート分析が一般化した00年代以降広く支持されている。ちょうどその時代に大手広告会社のマーケティングコンサルティング子会社の副社長をやっていた身としては余りに本職なのでここでは詳しくは触れないが、「世代効果」と呼ばれる年齢や時代に関わらず特定の世代がいつも持っている意識や行動のパターンが、明確に存在することが定量的に把握できるようになったからだ。

一方リチャード・ドーキンス博士の「利己的な遺伝子」が発表されて以来、「ミーム」という考え方が重要視されるようになった。遺伝的な形質とミームが掛け合わされ、その影響で人格が形成される。ミームは環境遺伝として、遺伝学・生物学といった自然科学サイドから提唱されたものであるが、コーホート分析においてある特定の年代に生まれた人達に共通に見られる現象である「世代効果」は、マーケティングにおける生活者インサイトの中から生まれてきた視点である。

全く違うルーツを持つにもかかわらず、ミームとコーホート分析には共通する視点がある、コーホート分析で抽出される各世代の特徴は、生活者インサイトの定性的な分析と組み合わせて分析すると、人格形成期のティーンズの頃の社会的状況が色濃く刷り込まれている。このような現象が起こる理由を、生物学的・自然科学的に解明したものがミーム理論であり、世代効果を裏付ける理論となっている。

最近はそういう事例が多いからかよく語られていることだが、認知症になった老人はその人の子供の頃のような状態に戻るという。そこまでいかなくても、戦後の経済が疲弊した時代に育った世代が老人となり、気に食わないとスグに喧嘩を売ってきたり、果ては包丁を振り回したりという「キれるジジイ」になっている。それは高度成長以降理性で抑えていた「ヤンチャな心」がよみがえり、気持ちが若い頃に食うに困ってカツアゲとか腕力にものを言わせていた頃に戻ってしまっているからだ。

人間には刷り込まれてしまったものがあり、それは理性の力で抑えることはできるかもしれないが、一生そこから逃れることはできないのだ。遺伝とミームを含め、十代の頃にはほぼどういう人間なのかは決まっているということだ。逆に言えば、人間としてのポテンシャルは十代の頃にはわかっているということになる。その才能を見抜き、それを伸ばすような経験とチャレンジを与えれば、自然に任せるより大きく伸びることになる。

桃太郎が向いている人間と、犬猿雉になってこそ生きる人間とは、ヒヨコの性別判定よろしく難しいことは難しいが、この時期に見分けられるということだ。このような適材適所的な人材育成を行えば、産業社会的な画一な底上げより社会全体のポテンシャルは高くなり、社会的な全体最適を実現できる。21世紀、情報社会的な人間の育て方の秘訣はここにある。「才能に合わせて育てる」こと。これが大切なのだ。

努力や勉強はAIにかなうわけがないし、それはAIに任せてしまえばいい。そのためにコンピュータを作り、AIを開発してきたワケではないか。そういう社会構造の中で、秀才のように人間がAIのマネをしても始まらないのは当然だ。そのような時代に人間が人間らしい強みを発揮するには、努力で何でもそつなくこなす秀才型の人材でではなく、一点突破でズバぬけた才能を発揮する天才型の人材が必要になる。

確かに地頭が強い天才は、放っておいても、どんな環境の中でもめきめきと頭角を現す。しかし、そのような「天然物の天才」は数が少なく、それだけに頼っていては社会が必要とする天才の数をまかなえない。これに対処するには、いろいろな理由からボーダーライン上にいる、環境に恵まれれば頭角を現すことができるレベルの人材を育て上げることが重要である。これこそ21世紀型の教育である。そしてその才能は、見る人が見ればティーンズの時にわかる。この選別こそがこれからの人類の生きる道である。


(20/07/31)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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