カラオケの向こう側





カラオケで歌がウマい人がいる。カラオケで歌がウマくなりたいと思っている人がいる。こういう人は点数付きのカラオケでかなりの評価を出したりする。こういう人の歌は、上手なことは確かだがなぜか心を動かされない。スゴいですねという感想は残っても、感動・感激することはあまりない。どうも歌が上手なことと、その唄で聴衆の心を動かすこととは次元が違う要素であるようだ。もちろん軸が違うのだから、上手でなおかつ感動を呼び起こす名歌手は何人もいる。

よくギャグとしてテレビの深夜番組などの企画モノとして取り上げられるが、人気歌手本人が、自分のヒット曲をカラオケで熱唱すると、意外とカラオケの採点は低かったりする。でも、歌そのものは極めて感動的で、生オケをバックにテレビの歌謡ショーとかで見せるパフォーマンスと変わらなかったりする。カラオケの点数はいわば楽器としての正確さの評価であり、音楽としてのクオリティーを示すものではないからだ。

その一方で、役者さんの唄などは、しばしば声もよくないし音程も不確かだったりするのだが、その唄を聞くと感動して感涙にむせぶということもよくある。やはり役者さんのステージパフォーマンスによる表現力、人々の心を動かす力には音楽だけやっている人にはないパワーがあふれている。こう見てゆくとすぐわかるのだが、歌が器用でウマいことと、唄に人を感動させる表現力があることとは全く別次元の項目である。

すでに使い分けているのでお気付きかと思うが、この文章では楽器としての正確さを「歌」、感動を呼ぶ表現力を「唄」と書き分けて区別することとする。ことの良し悪しはさておき、こういう仕事をしていると極めて素晴らしいスタジオシンガーに出会うことがある。メチャクチャ歌はウマい。平均律と自然率も歌い分けられる。声楽的な声も、ささやくようなアイドルヴォイスも出せる。極めて上手いのだ。まさに楽器としての喉は最高である。

しかしこういうタイプには、上手なワリになぜか歌そのものに華がない人が結構多い。上手なことは覚えていても、唄が心に残らないのだ。器用貧乏という言葉があるが、まさにそれ。コーラスやカラオケのガイドヴォーカルは最高にウマいのだが、ピンでセンターになると客を惹き付けない。もったいないのだが、プロのシンガーでもそういう人が多いのは事実だ。もっとも器用貧乏な人は歌手に限らず楽器のプレイヤーにも多いのだが。

結局この問題は、天性の喉を持っているにもかかわらず、自分が表現したいモノを持っていないことに尽きる。あるいは喉のすばらしさに幼少のころから自分自身酔ってしまって、声を出しているだけでうれしく、それで何かを表現しようというところまで行かなかったのかもしれない。美術や音楽など学校の芸術教育も、多くの場合技術教育・技術評価だけでクリエイティブ面での評価がないのもこれに拍車を掛ける。

こういう人達は、そのようなプロセスを経た成長過程の中で、まさにすばらしい喉が手段から目的になってしまったのだ。ある意味、勉強・努力・秀才が重視されてきた明治以降の「追いつき追い越せ」教育の中では、音楽に限らず「中身より技術」で評価する流れが続いていたため、社会のあらゆる面にこの悪弊が染み付いている。名著「失敗の本質」の問題提起の中でも出てくるが、日本の組織の問題点である「手段の目的化」のルーツはここに求められる。

これからのAIの時代、人間に求められるものはこの学んだものではなく湧き出てきた「自分らしい中身」である。表現したいモノがある、表現する力がある。そういう人が評価されなくてはならない。他の人のモノマネがウマくできるだけの人が評価される社会であってはいけない。「モノマネ上等」でこの200年近くやってきた日本としては、価値観や発想のコペルニクス的な転換が求められるのだ。

もちろん思想信条の自由があるから、そういう考え方の人達がいてもいいし、そういう人達のコミュニティーがあってもいい。芸事や家元制度は、そういう閉じた枠の中でいくらでもやっていただきたい。ただし、その価値観を枠の外にまで押し付けることは許されない。しかし、人類の未来のためには、そういうマスターベーションに浸っているだけでは前には進まないことも確かだ。

○○道には「師範制度」がつきものである。しかし、この制度は師範の喰いっぷちを保障するものではあっても、本当の意味で芸がウマくできるようになるシステムではない。エスタブリッシュされた完成形があり、それをマネることでレベルが上がってゆくというシステムになっている以上、構造的にお師匠さんを越えることができないからだ。どういうものであっても、手段が目的化すると「○○道」になり、家元制度になってしまう。

日本のスポーツ界が精神論に走りすぎ、グローバルレベルから大きく取り残されてしまったのも、「勝利」という目的を忘れて頑張ることが手段化し、野球道とかサッカー道とか陸上道とか、家元制度になってしまったせいだ。この十数年、たとえばバトミントンや卓球のようにその桎梏から脱しグローバルレベルの選手育成ができるようになった種目では、世界に活躍するアスリートが輩出していることがこれを示している。

21世紀は情報社会、AIの時代だ。AIの時代に人間に求められるものは、手先の器用さや努力する根性ではなく、唯一無二のクリエイティビティーだ。そしてこれは「持てる人間」と「持たざる人間」とが歴然と分けられる能力であり、学習や練習といった後天的な努力だけでは持つことができないものである。この「差」をはっきりと認め、それを持っている人間の能力を人類全体のために使える環境を作ることが、これからの人類の発展には不可欠となるのだ。


(20/08/07)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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