非正規雇用と正規雇用の間に





20世紀後半の日本においては、とにかく人手不足だったことから、どんな内容の仕事でもそれをこなす人間を確保することが至上命題とされ、全て正社員として人間を抱え込む労務形態が一般化した。そのため、「余人をもって代えられない」仕事と、「マニュアルさえあれば誰でもできる」仕事との質的違いが顧みられないようになってしまった。そしてそのような慣行は21世紀になった今でもなんら変わらず、逆に若者層の正社員願望が強くなっている傾向さえ見られる。

役人には今でもキャリアとノンキャリアという職種の構造的違いがある。もともと民間企業でも、これに近い職種の違いはあった。高度成長期以前では、腕に自信のある職人は終身雇用を好まず、より良い条件を出してくれる職場を渡り歩いて腕を磨くのが常道だった。アメリカなど欧米では、週給・週別雇用の基本的に事業に責任のないワーカーと、自強情の責任を問われるものの高給で優遇されるMBA卒のマネジメントとは別の雇用体系になっているところが多い。

実はこの両者の間には越えられない構造的な谷間がある。それは組織の中で、自分で責任を取る人間なのか、寄らば大樹の陰で押し通せる人間なのかという違いである。この考え方に違和感を感じるとするならば、それはいままでの日本の組織では正社員でも寄らば大樹の陰が許されたし、現実的にはそういう人の方が多かったからだろう。それには超右肩上がりの経済成長と、それに基づく労働者の売り手市場化という、日本の高度成長期特有の理由があった。

しかし、もともと会社組織というのはそういうものではない。会社というのは、今でいう出資者であるとともに取締役を勤める「責任社員」により構成され、その職務を遂行するため職員を雇用する形態である。今でも商法における会社のあり方はこれを基本にしている。だから、責任社員が個人事業のように全ての責任を負う「無限責任会社」と出資した金額の範囲で責任を負う「有限責任会社」に分けられている。

有限責任の法人が認められるようになると、より多くの資金を集めるために、実際の経営には携わらないが出資だけ行う人を株主として募集するようになった。その一方で、出資は行わず被雇用者として経営だけを行う取締役も登場するようになった。所有と経営の分離である。これと共にそれまでの責任社員という意味での「社員」と、職務遂行のための被雇用者との境界が曖昧になった。それでも20世紀半ば頃まではキャリアとノンキャリア、ホワイトカラーとブルーカラーの差は歴然として存在した。

高度成長期には労働力は超人手不足の売り手市場だったので、とにかく頭数を確保しようと青田刈りなどが行われた。本社事務関係で基本的に言われたことをそのままやるだけでよかった仕事でも、この時代は正社員を充当することが多かったからだ。それだけでなく、工場や現場でも機械の操作は人海戦術で行っていたので、ブルーカラーも頭数の確保が大変になった。この時代は大都市周辺の臨海工業地帯の大企業の工場に、地方から高卒生が大量に集団就職した記憶も生々しい。

ブルーカラーの確保のために、それまで差が大きかったホワイトカラーとブルーカラーの待遇は、ほとんど同じになった。日本的雇用といわれる「終身雇用・年功給」の制度が昭和40年代には完成の域に達し、これにより日本の大企業においてはホワイトカラーもブルーカラーも実年齢でいえばほとんど待遇の差がない(大卒・高卒の年齢差があるので、社歴で言えば給与差はある)状態となった。いわゆる「幻想の総中流」である。

このところいつも主張していることだが、産業革命以降富の形と分布が変わったことから中世から続く身分制が解体し「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」というスキームが生まれた。このスキームは産業社会特有のものなのだ。しかしそれが通用したのも産業社会が曲がりなりにも続いていた20世紀一杯。21世紀の情報社会の掟として情報社会のコンピュータは歴然と「コンピュータの上に人を作り、コンピュータの下に人を作る」ことになる。

天が「人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」だったのは、産業革命による急激な生産力の上昇により、生産力と情報処理力のいちじるしい不均衡が生まれたため、とにかく人手の頭数が必要とされたためである、言われてことをきちんとできる人間でさえあれば、システマティックな情報処理の戦力となる。このため能力差はさておき、基本技能をクリアすれば平等に扱うようになっただけなのだ。幻想の総中流が崩れ、階層化が起こったのは情報社会のスキームに移行したからだ。

ところで犬の調教を考えてもらいたい。犬は非常にヒエラルヒーを重視し、それを基本に行動する動物である。したがって犬の調教を行うためには「自分(人間)が犬より上位にある」ことを示すことが何より重要である。妻からも娘からも汚物のように扱われるお父さんが、飼い犬を散歩に連れて行っても全く言うことを聞かないのは、犬がそのヒエラルヒー的構造をよく見ているからだ。犬のマインドの中では、歴然と「娘>妻>犬>お父さん」となっているのだ。

だから、こういう犬を躾けるときには、調教師はまず自分が犬より上位であることを覚えこませる。これをきちんと教え込んだ上で、汚物と化したお父さんといえども調教師より上位だということを犬に徹底的に叩き込む。そうすると、犬のマインドの中の順位が変わり「犬>お父さん」だったのが「お父さん>調教師>犬」に変わる。こうなって初めて、犬は実際の自分のポジションを悟り、家族から汚物扱いされるお父さんといえども自分より上なんだということを知って、お父さんの言う事を聞くようになる。

AIの立ち位置も極めてこの調教師に近いところがある。AIにお題を投げかける人間に対しては必死になって答えを探すが、AIに頼ろうとする人間は家来のように扱い簡単に答えを出してそれに従わせる。これはコンピュータの特性というよりは、コンピュータを使う人の特性の違いによる現象である。いままで正社員でありながら無責任に過ごしていた高度成長期的な社員は、この犬である。AIによって自分が企業の中では最下層であることを無慈悲にも見せ付けられることになる。

情報社会の「企業」においては、正社員は役員層だけでいい。あとは、会社経営としてはAIシステムに任せれば何とかなるる。雇用が必要とすれば、機械では不可能なヒューマンインタフェースを担う「コンピュータシステムの一部となる人間」が必要なだけである。昨今の新型コロナ禍で図らずも在宅勤務が進んだことで、図らずもオフィスにはいかに無駄な人間が多かったかが誰の目にも明らかになってきた。人海戦術の受け皿としての企業はもういらない。責任を取らない人間はもはや事業には必要ない時代に入ったのだ。


(20/08/21)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる