左翼と民主主義の相性の悪さ





左翼・リベラルの特徴の一つとして、実は自分の意見がマジョリティーと異なっているにもかかわらず、自分の思い通りの政策が実行されていないことをもって「民意が反映されない」と主張したがるという傾向がある。一部の過激なテロリストはさておき、国会議員を出しているような政党であれば、きちんと議会での議論を通じて、ある程度自分達の主義主張を政策の中に反映することは可能だし、そのために少数意見の代表として議員を送り出しているはずなのだが。

実際、55年体制と呼ばれた自民党の長期政権下では、本来野党が主張していた社会主義的な政策を政府自らが取り入れて積極的に推進することが多かった。特に田中角栄首相以来、自民党田中派はこの戦略を特に推進した。それが、田中派が社会主義的政策の実施により新たな利権を拡大可能になる官僚層にもウケがよかった理由にもなっている。それにより野党も支持母体に対してそれなりに義理立てが図れるし、自らの主張や存在意義についてもそれなりのアイデンティティーを持てる。

そうでなく100%自分の主義主張を押し通したいと思っているのであれば、それは全体主義である。確かに左翼的ポピュリズムには、全体主義的傾向がビルトインされている。左翼政党の発想自体が、意識が高く知的レベルも高い一部のエリートが、愚蒙な大衆を啓蒙することで「より良い」世の中を作るというエリート主義を理想としている。これを一部の権力者による全体主義的支配を行うための理屈付けと呼ばずしてなんと呼べるだろうか。

20世紀の歴史を見れば、社会主義・共産主義的な政体になった国では、はじめは民主主義の仮面をかぶっていて、他の主義主張をもつ政党と組んで政権を奪取した後、次々と他の政党を弾圧して一党独裁を実現したところが多い。最初からクーデターや武力闘争で政権を樹立したところは、アフリカや南米の開発途上国の社会主義国に限られる。まあ、一党独裁を実現した後も、党内の派閥同士で権力闘争を行い、反対派を粛清することで自派の権力構造を確立するパターンが多いので、これはもう「性」ともいえる。

確かに日本でも、新左翼の各セクト間での内ゲバは死者が出るほど激しかったことは良く知られているが、分裂と野合を繰り返す野党の状況もこの現れであろう。派閥対立といえば、かつて労働組合が総評系と同盟系(さらに一部の共産党系)で激しく対立し、組合活動の盛んだった旧国鉄などでは、各系列ごとに組合員を取り合う争いを繰り返していた。さらに平和運動や人権運動など野党系の社会運動も、同様の系列ごとの激しい対立がつきものであった。

本来掲げている社会的な理念ではなく、派閥対立と対立者の排除という権力闘争が左翼の活動目的となっているかのようである。確かに百歩譲って、彼らも活動家になる前は、それなりに理念や理想に燃えていたのかもしれない。しかし、こういう構図はある種ゲームやスポーツのようなところがあり、一旦「その道」に嵌ってしまうと簡単に手段と目的の転倒が起こり、「勝ちたい」という権力闘争自体が目的化してしまうのだ。

もともとイデオロギーというのは一神教の原理主義主義的なところがあり、自分と異なる相手、特に自分に近くて「似て非なる」相手に対しては、相手を殲滅するまで激烈に戦ってしまう傾向が強い。だから、同じルーツで別派閥の相手に対しては、平気で人殺しを行えるのだ。だから左翼の言う「死ね」は、一般に使われる「絶交だ、顔も見たくない」という意味ではなく、本当に「命を取るぞ」という意味になる。

ある意味、これは生きるか死ぬかの宗教戦争である。共産主義者が宗教と対立するのも、まさにこういう文脈での「政敵」そのものだからだ。昭和40年代の創価学会と日本共産党との激しい抗争など、その典型的な例だろう。そういう「相手を完全に否定する」ことを目的としている相手とは、まともに議論ができるわけはないし、目標にプライオリティーをつけて妥協点を見出せるはずがない。そもそも左翼とはそういうメンタリティーの人達なのだ。

これに輪をかけているのが、その狭量な世界観である。彼等のものの見方は、現実のfactを客観的に把握することができず、あくまでも理屈の世界から入るところに特徴がある。現実を素直に見るのではなく、理論に強引に当てはめて解釈し、自分を正当化する。いわゆる「教条主義」に陥っているのだ。かつてのコミンテルンのような共産主義運動は、いろいろな国や地域特有の事情を理解できず、画一的な理論で革命を起こそうとしたから失敗した。

自分の都合のいい意見はこれ見よがしに取り上げるが、自分に都合の悪い意見は、たとえそれが多数意見であっても目をふさぎ、頭ごなしに否定する。理論的に否定するのならまだわからないでもないが、そもそも存在しないものとして思考の外に置くのだ。左翼や野党が良く使う「民意」や「世論」が、世の中のマジョリティーの考え方ではなく、常に「自分達と同じ考え方」という意味なのもそれゆえである。

ここで間違ってはいけないのは、こういう権力主義・全体主義・原理主義・教条主義といった特徴は、あくまでも社会主義政党や社会主義運動を行う組織といった、社会主義を旗印に掲げる左翼組織に特有のものであり、社会主義という考え方そのものに由来するものではない点だ。少なくともカール・マルクスがヴィジョナリストとして思い描いた、人類の豊かな未来社会のあり方としての「社会主義」にはこういう要素がビルトインされていたわけではない。マルクスは哲学者であり、左翼の活動家だったわけではないのだ。

ここはひとつエンゲルス以降の活動家が踏みにじった、垢と欲と血にまみれた社会主義イデオロギーはリセットして、マルクス本来のヴィジョナリズムとしての社会主義の原点を取り戻すべきではなかろうか。情報社会が到来した21世紀こそ、19世紀には夢想でしかなかった「豊かな人類社会」を実現する可能性のある基盤がそろった時代である。これからの人類社会のあり方を多面的に考えてゆくためには、このような視点は重要なソリューションを提供しうるものの一つだと考えるのだが。


(20/09/18)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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