見せマスク





私は医学の専門家ではないが、統計や実験計画法をはじめ基本的な理科系の素養は持っている。その見識の範囲ではあるが、このコラムでもかなり早くから、コロナウイルスが普通の熱の出る感冒の原因であることから類推して、これは最初こそ感染が強烈だが、そのうち普通の感冒の一つになってしまうだろうと主張していた。どうやらそれは当たりだったようで、もはや霞が関ではどうやって法定伝染病を外すかという「猫の首に誰が鈴をつけるか」が問題になっているのであろう。

通常ウイルス性の病気は麻疹や水疱瘡のように、一度罹れば免疫ができ二度と罹らないことになっている。ワクチンが有効なのは、これゆえである。しかしコロナウイルスは変異が早いので、毎年新型になり、だから毎年風邪をひく。だから風邪のワクチンは作っても意味がないことになる。インフルエンザもコロナではないが似ていて、変異が多い分ワクチンを打っても罹ることが多い。基本的に風邪系のウイルスはそういう性質があるのだ。

新型コロナもコロナウイルスである以上それと同じで、結局は在来型コロナウイルスと同じになり、普通の風邪になることで収束すると考えていた。それは図星であり、あるところから誰にも新型コロナが恐いものではないとわかってしまった。具体的には第二波の流行と呼ばれるピークが来た8月に、陽性者と発症者が乖離し、陽性者が増えても重症者や死亡者は激減しているという現実が目の前に見えてきたからだろう。

しかし、その時点から逆に「マスクさえつけてりゃ、フリーパス」みたいな機運が生まれたことも確かだ。江戸時代から日本の庶民にはおなじみの、「タテマエとホンネ」である。マスクをするという形式要件さえ満たせば、タテマエはクリアできる。タテマエがクリアできれば世間体はつくろえる。そうすれば、他人から見えないところではホンネでやりたい放題。まさにその先にあるのは、「旅の恥はかき捨て」「鬼のいぬ間の洗濯」での世界である。

この「形式要件」重視こそ、実は日本人・日本社会の本質である。日本におけるタテマエの本質といってもいい。日本人・日本社会の宿痾が、この「形式要件」の中に潜んでいる。さて「形式要件」にコダわるといえば、その最たるものが霞が関に代表される官庁である。ホンネである本質的内容はどうでもよく、タテマエとしての形式要件を満たしているかどうかだけが判断基準となっているのが役所なのだ。そしてこれは霞が関から村役場までレベルを問わず「官」には一貫しているものだ。

ひとことでいえば、彼等にとっては中身より「やってる感」をどう出すかこそが至上命題なのだ。そもそも秀才の官僚には時代を見るセンスの感覚がないので、民間のように「中身を評価する」ことができない。政策官庁が時流に合わせて戦略的産業振興政策を打ち出すのだが、「クールジャパン」がらみの振興策がすべて死屍累累になったことからもわかるように、ことごとく失敗してしまう。だが、これは当たり前だ。

民間でもヒットを出すのが難しいのに、生活者の感覚から乖離した霞が関が、事業の内容を理解し、その可能性を判断することなど不可能である。その結果、役所は提出書類の形式要件のみにこだわるようになる。いかに優れた事業かではなく、申請用紙のフォーマットに求められる要件をきちんと満たしているかどうかが「審査」の内容となる。これは一度でも役所と仕事をやったことのある人ならば誰でも実感していることだろう。

この結果、形式要件がキチンと満たされているならば、中身が全く架空であってもその申請は通るし、その一方でどんなに良い内容のプランであっても、形式要件にあっていなければ門前払いという現象が起きる。役所の対応が「杓子定規」といわれがちなのも、民間のビジネスでは重視されるホンネとしての「内容」ではなく、実体としては空虚な「形式要件」だけを重視し、金科玉条のごとく極めて厳格に審査するからだ。

まあこうなったのも、役人にとっては予算をしっかり消化することが大切なのであり、その結果がどうなるかは関心の外側だったからだろう。けっして許されることではないが、事実としてはそういう経緯があったものと思われる。この結果、色々な問題が起こってきた。最近話題になったものだけでも、外国人の健康保険の不正利用の問題や各種補助金の不正支給の問題など推挙のいとまがない。今回のコロナ関連の補助金でも不正申請はかなり多かっただろう。

社労士の分野で特に多いのだが、補助金の不正申請のコンサルなどというとんでもない商売まで罷り通っている。要は労働者能力開発支援などの各種補助金を、社内での能力開発セミナーをやっていないのにさもやったような書類を作って申請したり、架空の契約社員をでっち上げ彼等に対して教育等を行ったことにして申請したりするのである。これは労働行政の性質上全部背面チェックなどせず実はゆるゆるなのを熟知した上で、必ず通る不正申請を指南する商売である。

そして得られた補助金を、不正コンサルとその会社とで山分けすることになる。真っ当な会社はさすがに乗ってこないが、資金繰りに苦労している経営不振の中小企業などはけっこうこういう話に乗ってしまう。不正コンサルは、役所を通すための申請書の書き方に精通しているので、架空ではあっても完璧に形式要件を満たした申請書を作り上げてしまう。そして補助金が降りる。その一方で、マジメに本来の目的で補助金を利用しようとした会社は、中々申請が通らないのも事実だ。

ある意味、公共事業のバラ撒きと談合なども、これと同じ構造である。中身は問わず、表面的には遵法主義を貫くことで、本来公共のものであるべき税収入を不当な支出に紐付けてしまう。まさに「運用による骨抜き」の最も核心的部分だ。このように「形式要件主義」とは、仕事をしたフリをしてその実お手盛りをするための実に巧妙なシステムなのだ。そしてそれは日本人や日本社会が本質的に持っている習性と結びついている。

新型コロナ禍は、日本の官僚機構の無能さと自らの利権主義の体質をくっきりと浮き彫りにした。それと同時に、その体質が日本人のタテマエとホンネの使いわけに基づいていることも暴きだした。この「面従腹背」の習性は江戸時代以来数百年続いているものなので、そう簡単には変わらないだろう。しかし、これを利用した官僚の利権体質なら変えることができる。「失敗の本質」で示されたように、近代以来変わっていない日本の組織を悪癖を脱する時は今しかない。


(20/09/25)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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