クロスローズ





勉強とは、実は「悪魔に魂を売ること」に他ならない。勉強して得た知識を元にした人生というのは、自分の見つけた道で思うように生きるのではなく、先人のおいしい成果をもらって真似して生きることを選択した結果である。そもそも自分で発見するのではなく、先人の成果をいただくことでそれを自分のものとするのが勉強である。自分で発見せず勉強するのはある種のカンニングであり、楽といえば楽な道なのだ。

しかし、勉強して知識をつけることで楽をするという選択をして、悪魔に魂を売り渡してしまった以上押されてしまう悪魔の烙印がある。それは、十字路で悪魔と出会ったときの自分以上には成長することはできなくなることだ。勉強すればするほど、答えを知識として覚える方が楽なので、自分が考えることがなくなる。それで解決することが多ければ多いほど、自分で何かを考える能力は退化する。そして創造性はどんどん失われてゆく。

高級官僚に代表される秀才にクリエイティビティーがないのは、自分で考え発見することなく、先人の知恵を勉強して乗り切る道を選び、十字路で悪魔に魂を売り渡したからなのだ。いや、自分にクリエイティビティーが足りないことを知っていたからこそ、積極的に悪魔に売り込んだのかもしれない。自分で見つけるのではなく、勉強して知識をつけるというのは、ある種そういうズルをしていることなのである。逆に自分で見つけるというのは、それほど難しく誰でもできることではない。

ただ毒も薬である。いつも言っているように勉強することの全てを否定しているわけではない。後進国が「追いつき追い越せ」の流れを作るためには、勉強は非常に有効である。先進国がすでに成し遂げたことは、具体的な成果として形になっている。そこまで追いつくには、それを勉強というリバース・エンジニアリングにより自分のものとして、テイクオフするためのシード権を得るのが一番効率的だ。

そして、先端的な成果を学び真似することさえも、けっして簡単なことではない。先進国が数十年かけて実現したことを数年でコピーしなくてはいけないのだ。このためには優秀な人間を大量に投入し、自分の考えを捨てて先人の成し遂げた本質を学び、それをそっくりに再現する作戦が取られることになった。日本で言えば明治時代には優れた人材を大量に公費で留学させるような戦略が取られ、かなりの成果を上げることができた。

これらにより少なくとも欧米の先端技術をそれなりにコピーする技術力のベースを築くことができ、それが20世紀に入ってからの日本の工業生産の発展に大いに寄与したことは間違いない。太平洋戦争中に潜水艦で持ち帰った図面だけでBMW003ジェットエンジンをアレンジしてコピーし、ネ20という実際に動くジェットエンジンを完成させ、これまたメッサーシュミットMe262を参考に小型化した「橘花」に装着して飛行できたという事実がそれを語っている。

そういう意味では、時と場合を間違えなければ、先進国の技術や学問をデッドコピーで学習することもそれなりの意味がある。ただそれはドーピングである。これに頼りすぎると、そのイージーさに感覚が麻痺し、なんでも手当たり次第にコピーするようになり、果ては自分で物を考えられなくなる。日本のメーカーが「いい物を安く」で、欧米の先端製品の同等品を安く作るのには長けていたが、オリジナリティーのある商品を生み出すのが苦手だったのは、これが原因である。

この手の「ドーピング」は時と場合を考えなくてはならない。戦争中に兵士の気合を高めるため覚せい剤が使われたのは有名な事実である。戦争中は非常事態ということで、火事場の馬鹿力を出させることが人々の命を守るためには必要だったかもしれない。そのため使いすぎて常習性が出てしまう危険性のある薬物であっても、まさに「毒も使いよう」である。しかし、平時にはそれは必要ない。

ところが、戦後の混乱により虚無的な人生を送る人達の間で、あの興奮を思い出し現実から逃避する手段として、まだ市販が許可されていた覚せい剤が大流行してしまった。このように、ドーピングというのは元々ある目的を達成するための手段として導入されるのだが、それ自体に高揚感がある以上、それ自体が目的化しやすいという特徴を持っている。

勉強や努力もあくまでも発展途上国であった日本が「追いつき追い越す」ための手段であったのが、先進国化して目的が達成されてしまって以降は本来の目的が失われたため、勉強に能力を発揮できた秀才達が自分がどこまで点数を取れるのか試してみることが目的化しそこにに快楽を感じるためのゲームとなってしまった。先進国になればなるほど、社会的に秀才が必要とされるポジションが減ってゆく。それとともに秀才の自己撞着が起こるのだ。

その成れの果ての公務員試験や医師国家試験も、かつてのように国威発揚を図りたいとか、人の命を救いたいとか、世の中の役に立つための目的実現のために受けるものではなく、そこでよりよい成績を取ることで、秀才としての自分の自己肯定感を勝ち取るために受けるものとなってしまった。本当なら公務員試験にしろ医師国家試験にしろ、知識を問う前に、自分を犠牲にしても社会のため他人のために利他的に滅私奉公ができるかどうか、そのメンタリティーを調べた方がいい。

秀才の中に一部混じっている、なまじ悪知恵が働くような頭を持っている連中が、点数だけでこういう世のため人のための仕事につくと、さも仕事をしているフリだけして結局自分の利権を守り拡大することに汲々としてしまう。そんな「センセイ」より、そこまで頭が切れなくとも「自分を捨てても世の中のためになりたい」という献身的な心を持っている人の方が、よほどこういう仕事には向いている。

かつて秀才でなくてはこなせなかった部分は、今やAIがこなしてくれる。しかしこれらのビジネスがヒューマンサービスである以上、機械だけの処理は不可能であり、フェイス・トゥー・フェイスの対応が不可欠である。そうであるならば変に賢い人間は必要ない。自己犠牲を払い世の中の礎となってもいいと心から思える人を優先的にその仕事に就けるべきである。これも、社会の情報化が進んだことにより起こった変化だ。

勉強の本質はこういうところのあるのだから、AIが発達した今となっては、悪魔に魂を売り渡す作業はコンピュータに任せればいい。そもそもコンピュータに魂はないのだから(「ゴースト」は人間の魂をデータとしてコンピュータに記憶させたものだ)悪魔に売り渡して何か問題が起こるということもない。人間は人間らしく、創造に打ち込むことができる。このような社会環境を実現してこそ、コンピュータが人類社会に貢献し、その幸せを拡大してくれるということができるだろう。


(20/10/16)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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