映像による指導とテキストによる指導





このところYoutube等の動画サイトでは、動画映像によるハウツー・ノウハウ提供が目立っている。新型コロナ禍以降対面型の教室がやりにくくなったこともあり、一層隆盛になってきた。もっとも世紀の変わり目あたりから、スポーツや音楽などの分野ではそれまでの教則本に代わって教則ビデオやDVD付き本が主流になっていた。予備校や塾でも、オンラインで動画を配信して授業を行うタイプのものが増えてきている。

このように指導の現場では、映像を使って指導するタイプの授業が隆盛である。確かに技術をマスターするタイプの教育、特に師匠のやり方をなぞるようにマネして習得するタイプの教育には映像はうってつけだ。具体的なプロセスや手の動かし方が時間軸に沿ってわかるので、それをなぞってゆけば同じようにできる。文章と分解写真だけでこれを的確に伝えるのは確かに難しい。

その一方で、要領のいい人は映像での解説はまどろっこしいと感じることが多い。映像は時間軸の流れが固定されているため、標準的な習得時間に合わせてフッテージの長さを決めてあるのが普通だ。よくわからない人は、何度も繰り返して再生してくれという対応である。しかし、逆に飲み込みの早い人にとっては、中々前に進んでくれないのがうっとうしく感じられる。こういう場合は映像は逆効果だ。

それだけではない。こういう人たちの問題意識は、師匠のやり方をひとまずマネしてマスターしたいというニーズではなく、大体どうやればいいかは想像がついていて、このポイントだけを知りたいということが多い。こういうニーズに対しては、早送りやチャプターのランダムアクセスを使ってもなかなか目的の箇所を発見するというのは難しい。それこそキーワードで検索できるタグでもついていなくてはダメだ。

ということは、こういうニーズにはハイパーテクスト形式のデータが最も適しているということになる。テキストをベースとした指導であれば(そこに映像や画像が埋め込まれていたといしても)、自分が知りたいところだけをピンポイントで知ることが可能である。そこで、シーケンシャルに流れを見せてその流れごとマスターしてもらうのを映像型指導、ニーズに合わせてピンポイントにランダムアクセスが可能なのをテキスト型指導と名付けよう。

すなわち、要領のいい人は本質が理解できていてテクニック的な一部分だけを知りたいから、ボトルネックになっている疑問点を即解消できるテキスト型指導がフィットする。その一方で、初心者に手取り足取り「こうやればそっくりにできますよ」と教えるのには映像型指導が非常に効果的である。要はどちらもありうるし、利用者のニーズに合わせて使い分ければいいということだ。とはいうものの、その裏には実は大きな落とし穴が待っている。

映像型指導は、師匠のやり方をそっくりにマネすることには役立っても、その道の極意や本質を会得するためには逆に遠回りになってしまう点だ。それは芸術であってもスポーツであっても、手法やテクニックというものは極めて具体的かつ表層的なものであるのに対し、本質というのはかなり抽象的で観念的な部分に存在しているからだ。映像による指導は具体的過ぎて、その裏側にある本質を伝えるのが難しくなってしまう。

その道の極意や本質は唯一絶対のものがあるわけではなく、名人一人一人の中で、その人ならではのカタチで存在している。このため自分が会得するためには、その悟りを自分で開かなくてはならない。このため個別具体的には伝えたり教えたりできないものになっている。いってみれば、一回受け止めた上で心の中で咀嚼し、自分のものにしてからでないとわからないものなのだ。

もちろん本質を知る上でも「師匠」たる人がいてもいいのだが、これは見てわかるというものではないので、広くコミュニケーションをとった上で生き様も含めて理解することが前提となる。芸事であっても、その技を見るだけでなく「師匠」の人となりそのものを話として伺うことで初めて知れることも多い。そのくらい奥が深いのである。だからこそ本質を知るためには、まず言葉で聞いた方がいい。その上で現物を見て確認するというプロセスである。

言葉だけ聞いたのでは、そっくりにマネるのは難しい。マネるためには見ることが重要である。その一方で、いくら上手くマネても、本質はわからない。それはインタラクティブなコミュニケーションが成り立っているかどうかという問題がそのバックグラウンドにあるからだ。指導の映像はそもそもシーケンスに従った予定調和的な展開しかできない、一方的なコミュニケーションである。

もっとも日本においては、表面的なテクニックやカタチだけをそっくりにマネているだけで、道を究めた気になっている人が昔から多い。逆説的に言えば、それは映像による指導がなかったからこそ、見て学ぶチャンスを得ることも難しかったからに他ならない。今のようなカタチで映像による指導がイージーなものになれば、反対に本質を学ぶことの重要さが再認識されることになるだろう。情報化というのは、そういう面も持っているのだ。


(20/10/30)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる