自分らしさとは





若い時は人に会うのが楽しいし、とにかく集まって人と会いたくなるものだ。それは人間という生物のDNAに刻まれた生き方の秘密かもしれない。何か新しいことを始めるためには、自分が桃太郎になってリーダーシップを発揮するのでも、桃太郎の犬・猿・雉になって家来としていい思いをするのでも、そのきっかけとして顔の広さ・ネットワークの広さが重要になるのが、社会的生物としての人間の性である。

しかしそれも、若い間のことである。ある年齢を過ぎるとおのずと自分のポジションが決まってくる。そうなってくると、もはや同じことを繰り返していただけでは自分のネットワークを維持することすらおぼつかなくなる。ビジネスネットワークのキーマンとなるのは、金を持っているか、アイディアを生み出せるか、どちらかである。ベンチャーのファウンダーのように両方持っていれば一番強いのは間違いない。

その一方で、サラリーマンにはそのどちらもない人のほうが多い。そのどちらもないから、大企業に依存してその大組織の中に紛れて何とか生きていこうとするわけだ。確かに、営業などビジネスマンの組織は軍隊のように士官と兵隊のような構造的な差がないので、一兵卒として活躍する分には顔を広げて「スゴい人」と接点を増やすだけでも仕事になる。 それでけっこういい仕事ができたりする。そして「生涯一兵卒」でもそれなりに成果を上げることはできる。

しかし、その成果は犬・猿・雉が桃太郎に出会えて、スゴい戦果を上げることができたようなものである。その範囲においては両者共にwin-winではあろうが、どこかにリーダーがいなくては「一兵卒」は成り立たないところに構造的問題が潜んでいる。ところが高度成長の勢いは、「一兵卒」ばかりで司令官たる将校がいない組織の企業でも、それなりに売り上げを拡大し、企業として利益を生み成り立たせる基盤を保証してしまった。

高度成長期の日本においては、爆発的な右肩上がりの経済の拡大をバックに、青田刈りの人材不足が常に重くのしかかるとともに、お猿の電車のようにインテリジェントにコントロールしなくてもそれなりに売り上げが拡大する追い風を前提に、年功序列で才能を問わない人事制度が定着してしまった。誰でもいいから、ハンコを押す人がいればいい。それが高度成長期のマネージャー観だった。

少なくともマネージャーから上のレベル、人を評価したり戦略的に資金を投下したりする権限を与えられる人間は、その才能を持つ人間に限るべきである。ポジションと社歴をリンクさせた年功制の問題がここにあった。そして、その頂点はトップにまで及ぶ。「桃太郎」ではなく「犬・猿・雉」のまま組織のトップに立たされる、無責任なサラリーマン社長の登場である。ここに、サラリーマン社長の不幸がある。

社長もリーダーシップのいかんと関係なく、年功序列の頂点にある「椅子」になってしまったのだ。これは「誰かの知恵を借りれば何とかなる」で来た人が、トップについてしまうことを意味する。これでは日本企業は、桃太郎のいない犬・猿・雉ばかりの集団だ。烏合の衆ともいう。トップマネジメントとは本来、自分の責任で肚をくくって、自分が良いと思う判断の元全責任を取って組織を引っ張ってゆく存在である。

その椅子に、自分でものを考えず、人的ネットワークの広さだけを誇るような人が就いてしまうわけだ。これは誰にとっても不幸である。その下につく人間も不幸だし、それ以上に本人が不幸なのだ。自分より上の命令を与えてくれる人がいないというのは、いままで培ってきた業務上の強みが全く通用しないポジションである。それでも右肩上がりで業績が上がっていれば、座っているだけの「お猿の電車」で何もしなくても通用してしまう。

だからこそ、不祥事などが起こった時にこそ本質が露呈するのだ。肚をくくれる人であれば、リスクマネジメントとか格段に語らずとも、問題が起きた時の対処は「自分が責任を取る」と「その後を戦略的に考える」で対応できる。工場が火事になるなどのリスクは昔からあった。しかし、リーダーシップが取れる経営者はあわてず騒がず、起こってしまったことはしょうがないので、この後をどういう形で乗り切ってゆくかを考えることに、サッと頭を切り替える。

一方で無責任なサラリーマン経営者は、リスクが発生するとのしかかってくる責任の重さに人格が崩壊し、パニックになって何も考えられなくなる。そもそもこれではリスク対応などできるわけがない。ある意味そこで取られる不適切な発言や態度は、そういう前後不覚になっている自分に正直であることの現われとも言える。自分の能力を越えた事を求められているのだから、対応できないのが当たり前といえば当たり前である。

不祥事が起きると、その対応のマズさでトップマネジメントの責任が問われることが多いが、もともと責任能力がないのだから責任の取りようがない。心神喪失・心神耗弱の人に罪を問えないようなものである。この問題は社長個人に帰するものではなく、そもそもそういう能力のない人間を年功序列だけで人間をトップに挿げてしまったこと自体が間違っているのだ。

そういう意味では、トップ個人の責任以上に、そんなヤツを代表者に選んでしまった取締役会や株主総会の責任は重大である。はっきりいって、会社を社員のオモチャにしてしまったのは、ステークホールダーの責任である。株価も上がり続けていた右肩上がりの高度成長は、ステークホールダーさえ無責任にしてしまったのだ。日本の納税者が、役所の税金の使い道に関して無関心なのも同じ理由であろう。しかしそのしっぺ返しは、かならず自分に戻ってくる。

いまや「物言わぬ者には分け前ない」の時代である。リターンが欲しければ、自分でそれを確保して分捕らなくては手に入らない。江戸時代以来の「庶民は無責任階級」という時代は終わった。もう「旅の恥はかき捨て」でも「鬼のいぬ間の洗濯」でもない。自分が肚をくくって責任を持って、自分が望むコンテクストを作り出さなくては、いつまで待ってもチャンスは来ない。それができる人間なら、すぐにやればいい。誰もやっていない分、結果はすぐ手に入るはずだ。


(20/12/04)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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