権力と反権力





現在の政治的権力に対して反対する「反権力」勢力の中には、実は二種類のタイプがある。一つは現在の権力者が嫌いで許せないので、自分がそれになり替わって次の権力者になろうとするタイプ。権力志向という意味では同じ穴の狢なのだが、利害やその他が現在の権力と相反するので、自分が権力を握ろうとする人達だ。現在の権力を握っている人達には反対ではあるものの、権力主義ということでは全く同じ穴の狢である。

そういう意味では、こういう人達は「権力主義的反権力」というべきであろう。戦国時代の武将をイメージするとわかりやすい。あるいは日本の組織にはつきものの、派閥間の領袖の違いというべきだろうか。目指している権力構造は同じだが、今権力を握っている人の代わりに自分が権力の座に就きたいという人達だ。もちろん自分が自分が権力者にこそなろうと思っていなくても、自分と志を同じくする人が権力者になって欲しい、その分け前に預かりたいと思っているその支持者も含む。

その一方で権力そのものが嫌いというタイプもいる。古くはアナキスト、無政府主義者のようにこの世から権力そのものを消し去ってしまうことを理想とする人達だ。現体制を否定する左翼社会主義運動の歴史の中でも、全体主義を志向する共産主義者と、権力そのものを否定する無政府主義者がいたように、反権力主義はかなり古い時代から存在している。自分達が権力を握ろうと思っていない分、構造的には大いに異なる。この人達は「権力否定的反権力」といえよう。

権力否定型は、とにかく上から目線で命令されるのが嫌なのだ。だから、決して自分も誰かに命令しようとは思わない。支配も命令もなく、みんな好き勝手にやればいいという考え方である。こういう人達は、もし現状の政治機構の中で権力についてしまったなら、即座にその権力構造自体を解体し始めるだろう。このようにこの両者は反権力という点では一見一致するが、その目指しているものは全くの水と油、絶対に受け入れ合うことはない。

かつては、この両者が「野党精神」ということで偶然ベクトルが一致したこともあった。 1989年参議院選挙での「土井ブーム」、いわゆる「山は動いた」の名言を残した腸捻転の原点となった選挙などはその最たる例だろう。社会党の権力志向の強さを知ってか知らずか、アナーキーな「なんかとてつもないことが起こったら面白い」と思う層が土井委員長を勝手に応援する勝手連的なブームが起き、一気に波が起こって参議院の与野党逆転現象が起こった。

ところが、これが日本では逆に反権力の二つの流れを決別させるきっかけとなったことが面白い。権力否定型のアナーキーな方からすると、「結局あいつらも権力志向じゃないか」ということがはっきりわかってしまったからだ。それ以降は、権力そのものが嫌いなタイプは、政治そのものから遠ざかってしまった。権力の上から目線よりも、自分達で固まって勝手に好きなことをやっていた方がいい。ある種若者の「ブロック経済化」を引き起こすカギになったきっかけともいえるだろう。

余談になるが、その結果起こった変化の最たるものが、ひらがな「おたく」からカタカナ「オタク」への変化である。元々漫画研究会や同人誌などのムーブメントは、大手出版社によるコミックスのメジャー化の中で、60年代までのサブカル・アングラ的な漫画の流れを引き継ぐ形で、主として大学生により生み出され70年代に受け継がれた。当時の若者文化自体がサブカル全盛だったため、まさにエロ・グロ・ナンセンス何でも漫画で表現しようという、熱い表現者たちの集まりがコミケットを生み出した。

このようなベースがあったからこそ、ひらがな「おたく」はなにより表現者としての自己規定が明確だったし、コミケもあくまでも草漫画家の「発表の場」であった。これが90年代に入ると「薄い本を買うトレード・コンベンション」となり、出展者にとってこそ発表の場ではあったものの、コミケ参加者の中心は作品発表ではなく作品購入のために来訪する「一般参加者」に移っていった。自分では創作せず、単に純粋消費者としてコレクションにいそしむのがカタカナ「オタク」である。

89年を分水嶺として90年代に向かって雪崩を打つように起こったもう一つの流れは、政治重視から経済重視への変化である。本当の自由主義市場には、権力はない。成否は結果として消費者が決めるだけである。ショートヘッドも、ロングテールも、それなりに生き残れる。それはだれが命令したものでも、決めたものでもない。まさにアダム・スミスの国富論以来「見えざる神の手」が采配するのが自由主義市場であり、そこでは人々が利己的に行動することこそが、市場を通じて公益の増大にもつながる。

「権力主義的反権力」の人達が「命令と服従」を基本とする秩序を愛するのに対し、「権力否定的反権力」の人達は他人に迷惑をかけない限り何人も他人の行動に干渉することはできないことを主張する。そういう意味では、「権力否定的反権力」とは、すでに広まっている言葉を使えば、新自由主義やリバタリアニズムなどを含むより広い概念ということができる。権力主義にはエスタブリッシュされた権力に対する甘えがあるのに対し、こちらの人達は「自立・自己責任」であくまでも個人が肚をくくり責任を取ることを重視する。

「権力否定的反権力」は、基本的に他人に興味がない。自分のしたいことをしたいようにするだけ。それだけが守るべき原則である。それが邪魔されない限り他人が何をしようと勝手だし、何も干渉しない。他人に対し命令もしないし、服従させようともしない。まさに非権力である。どうも世の中には、30年経った今でもこの構造が理解できていない人が結構いる。権力対反権力よりも、権力主義対権力否定という、反権力の中の対立の方が主要な対立軸になっているのだ。

野党やジャーナリズム、アカデミズムなど、既存の理屈に乗っかりあぐらをかいている連中は、軒並みこの状況を理解できていない。奇しくも新型コロナ禍でこういう連中の浅はかさ、ウサンくささが激しく浮き彫りになってきた。ある意味「非権力」は多様性を重視し個人の自決権を重視するという意味では、「小さな政府」との相性がいい。権力機構に権力を集中させないという意味でも、「小さな政府」の方が望ましいのである。その一方で「権力志向」の人達は、より多くの税金を集め、中央集権で大きな権力を握りたいという意味で、「大きな政府」との親和性が高い。

すなわち、イデオロギーが消えた21世紀における要な対立軸は、やはり「大きな政府・権力主義」と「小さな政府・個人主義」なのだ。言い方を変えれば、これは20世紀的スキームと21世紀的なスキームとの対立となる。この構造をしっかりと捉え、この流れに従って人々の意識を集中させることが必要となっている。少なくともこのような軸を作ることができれば、かなり論点が明確になり判断もしやすくなるといえるだろう。とはいえ、現代の日本では大きな政府の権力を支えるだけの税収を得ることはもはや難しくなっているのだが。


(20/12/18)

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