煽る人





コロナ騒動でかつて20世紀の産業社会の時代にはそれなりの権威を持っていた、野党、リベラル、アカデミズム、マスコミ・ジャーナリズムといった人達の化けの皮が剥げ、無能な裸の王様であることが人々の目に明らかになっていた。彼等は確固とした自分の意見を持っていてそれをベースに主張するのではなく、その時々のメインストリームに反対することだけで自分たちの居場所を作ってきた。高度成長期には「反対すれば、ゴネ得でバラ撒きの恩恵にあずかれる」というだけでアイデンティティーを発揮できたのだ。

しかし21世紀に入り情報社会の時代となると、メインストリーム自体が理由もなく頑固に守旧的な主張をするのでは成り立たなくなってしまった。このためメインストリームであり続けるためには、時代の空気を読み取んで変化しなくてはならなくなった。こういう時代になっても、彼等は長年の習性から、メインストリームの主張にオウム返しのように反対することしかできない。

この結果、相手がどう変化しても常にそれに反対するという「反対のための反対」しかできなくなった。主張している内容がコロコロ変わり、結果的に自分の主張が自己矛盾をきたすようになる。これがいわゆる「ブーメラン」である。結果、どんどん信用は失われ、支持者・読者は減ってゆく。まあ自業自得といえばそれまでなのだが、コバンザメのように、相手があってはじめて自分の存在を主張できるという構造的弱さが最初からあり、それが遂に自分の足を掬うところまで劣化したということだ。

さらに追い込まれると、もはや反対ですらなく、単なる脅しの繰り返しになってしまう。まさに狼少年である。メインストリームの変化に付いていけず、反対のための反対すらできなくなってしまったため、単にテロリストのように煽って「体制側」に脅威を与えたような気分に浸るしかなくなっているのだ。そこにはかつてあったような社会正義や平等といった「タテマエとしての理屈」すらなくなっている。いわゆる「フェイクニュース」が出てくる理由もここにある。

プロレスの悪役よろしく、ヒーローの反対のことだけをしているから、一貫性がないのだ。相手が言っていることが変わったら、昨日の発言と今日の発言と全く矛盾しても気にしない。プロレスならワンタイムパフォーマンスのショーだから、それでもその瞬間が面白ければいい。しかしジャーナリズムやアカデミズムでは、それは自殺行為だ。主張のベースがコロコロ変わってしまっては、自分のアイデンティティーがなくなってしまう。

これを考えるには、生活者のマインドを捉えられたかどうかという視点が必須である。そのためには、生活者を把握することを至上の課題としてきたマーケティングの理論を援用するのが適切であろう。当時もてはやされた「イノベーター理論」のように、ヴォリュームゾーンが何も考えずにアーリーアダプターを追いかけていた時代ならば、カウンターカルチャーのように「違う考え方もあるぞ」という意見を提示することはそれなりに意味があったのかもしれない。

世の中の情報化が進むと、川の流れのように上から下に情報が伝わる「上から目線」だけでなく、仲間同士の中で横に情報が伝わる「横から目線」の方がより深く信頼され、行動の規範となるようになった。マジョリティーのヴォリュームゾーンが自己主張を始める「キャズム理論」の時代となったのだ。みんながやっているから、安心して私もできる。インスタ映えのするディッシュを出す料理店には、我も我もと並んで大行列のヒットになる事例が典型的だ。

00年代当時、電通で私が率いていた生活者インサイトチームは、この現象をバブル期のような都市部の先端的生活者が流行を作り出す時代が終わり、本当のヴォリュームゾーン、売れ筋ヒットが生まれるのは、イオンモールに代表される地方の人達が地元で行う消費形態からになったとして「ロードサイド消費」と名付けた。同じころ博報堂DYの生活者研究チームはほぼ同じターゲットを「マイルドヤンキー」と名付けた。

まあ名称はどちらでも良いのだが、ヴォリュームゾーンの消費に関してはマーケティング的には誰が見ても変化が起きていたことを示すいい例だろう。結局このような生活者の意識や行動の変化には、そもそも「啓蒙」という上から目線でヴォリュームゾーンを見下げていた、野党、リベラル、アカデミズム、マスコミ・ジャーナリズムといった人達はついていけず、20世紀的発想のまま時代に取り残されてしまったということなのだ。

産業革命時のラッダイト運動(機械打ちこわしテロ)のように、時代に取り残されてしまった人は、新しい時代を象徴するものを暴力的テロで破壊したがるものである。野党、リベラル、アカデミズム、マスコミ・ジャーナリズムといった人達は、そういう時代についてゆけず守旧的になった可哀想な人であり、だからこそテロに走っているのである。もはや社会的影響力も風前のともし火になっている、絶滅危惧種といってもいい。ある意味、珍獣として保護して笑って見守るぐらいの余裕をもって接した方がいいのかもしれない。


(20/12/25)

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