好奇心が未来を拓く





好奇心の持ちようが、その人間の価値を規定する時代となってきた。今や知識は簡単にググれる時代である。もはや知識の多寡には意味がない。それどころか、情報化により蓄積された豊富な知識をハンドリングするのも、人間よりはAIの方が余程スマートにこなすようになっている。既知の情報を取り扱う限り、コンピュータシステムに対して人間の勝ち目はない。その一方で簡単に情報が得られるからこそ、それを検索しようというモチベーションの方が重要になる。

すなわち、知りたい疑問や解き明かしたい謎を持っていることが大事なのだ。その気持ちさえあれば、知恵はいくらでも増殖する。そして、答えはAIがすぐに出してくれる。これこそ、人間とコンピュータとのあるべき役割分担である。そして知りたい気持ちを生みだす鍵こそ好奇心だ。ナゼと思う気持ち。秘密を知りたい気持ち。それをもたらすものが好奇心なのだ。すなわち好奇心こそ、新たな知の地平を開拓したいというフロンティア精神を掻き立てる原動力といえる。

知識を覚えることが勉強だった時代には、こういう好奇心は秀才にとっては「気が散る」材料でしかなく、ガリ勉のためにはマイナスだった。疑問を持ったり、理由を考えたりする時間があれば、少しでも多くの知識を叩きこんだ方がいい。これが秀才流の学問のやり方だった。偏差値主義により、秀才こそ学問のあるべき姿となってしまった20世紀の日本では、誰もこの方程式に疑問を差し挟まなくなってしまった。しかし、それは極めて例外的な状況である。

元来学問というのは、好奇心から生まれてくるものだった。知への探求心の賜物であった。好奇心こそ、純粋な学問する心をもたらす要因であった。世界に冠たる18世紀〜19世紀の大英帝国は、同時に学問の大国であり、自然科学の発達が産業革命を生み出しただけでなく、社会科学の発達も近代社会に最適化した社会システムや経済システムを生み出すことにつながった。学問のあらゆる分野で発明や発見が続いたことが、大英帝国のパワーの源泉の一つであったことは間違いない。

その一方で後発国ほど、学問の位置づけが変わってくる。19世紀列強の中では後発だった日本はその典型だ。日本の場合、帝国主義の列強が一通り登場してから国際社会の中に入り込んだ分、先行している先進国がすでにエスタブリッシュしているものをできるだけ早く取り入れモノにする「追いつき追い越せ」の戦略を取ることで後れを挽回しようとした。学問はそのための道具となってしまい、多くの人にとっては知への探求からは程遠いものとなってしまった。

それと共に学歴社会度も高まってくる。学問が知的探求心の追求ではなく、先進国に追いつくための手段になってしまうと、浮世離れしているほど新しい可能性を生み出す学問ではなく、役に立つ学問が求められ、そのノウハウをマスターした人材は高く評価される。これが学歴社会の本質である。従って19世紀に陽の沈まない帝国だったイギリスより、20世紀に入って世界の覇者となったアメリカの方がより学歴社会性が高い。

これは学問に対し求める価値が違うから起こる現象だ。ヨーロッパでは長らく「金になるものは学問ではない」とされ、工学や経営学のような「実学」は、法学や哲学、理学のような学問らしい学問と比べると、一段格が低いものとして蔑まれてきた。ある意味、学問とは貴族の社会的な貢献として「持ち出し」で純粋な知の探究をやることで、人類社会の未来に役立てるべきものという考えが基本であった。これは今でも変わらず、ヨーロッパでは純粋学問と実学の壁は大きい。

一方アメリカにおいては、やはり建国が後発であったため、産業革命後は先端的な技術をヨーロッパから導入し、工業化により経済発展を目指すという明確な目標があった。このため最初から、経済や技術の発展に役立ってこそ学問は意味があるという、プラグマティックな学問観が主流となっていた。このため、工学やMBAのような経営学など、直接的に技術やノウハウを開発する研究が人気を呼び、学問の主流となっていった。

これが功を奏し、19世紀に急成長したアメリカは、第一次大戦後に世界経済の中心となり、ローリング20sという未曽有の経済繁栄を手にすることになる。アメリカにおいては実学中心のアカデミズムはその後も主流となり、20世紀における科学技術や経営・マーケティングのリーダーとして世界に君臨し、今でも技術大国として100年以上に渡って繁栄を続ける要因となった。そういう意味では、西欧的な学問とアメリカ的な学問とは大きな構造的違いがある。

ヨーロッパの帝国主義が世界を支配していた時代には、ヨーロッパ的な純粋学問こそ学問の神髄という考え方が世界の主流であったが、アメリカがその経済力から世界の文化や社会のリーダーとなった20世紀においては、役に立つ学問こそ学問の神髄だという考え方が世界的に主流となってきた。この結果、世界中の先進国において、理系では工学、文系では経営学が脚光を浴びるようになり、就職に有利という意味でも学生の人気を最も集めるようになった。

その転換点が、世の中のあらゆる情報がビッグデータとしてネットワーク上に存在しアクセス可能になるとともに、それらの情報を人間の求めに応じてたちどころに処理するAIが実用化された、情報社会の到来である。まさに今まで秀才に求められていた機能は、情報システムが手際よくこなしてくれるのだ。ここに至って、人間に求められる役割はそれらのシステムに知りたい疑問や解き明かしたい謎をぶつけ、それを駆使して答えを出させることでとなった。

そういう意味では、21世紀は好奇心の時代なのである。好奇心に富んだ人間であれば、AIやビッグデータを使いこなして、新たな発明・発見をもたらすことができる。これこそ、人間とコンピュータが幸せな棲み分けである。これからの「教育」にもとめられることは、子供たちの好奇心の芽をつぶさず、コンピュータシステムを駆使して答えを発見する喜びを教えることだ。それは難しいことではない。教えるのではなく、自分で発見させる。この体験を積み重ねるところからこそ、真に21世紀的な人間が生まれてくるのだ。


(21/01/15)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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