組織投資と個人投資





高度成長期の日本では、基本的に社会全体で資金が不足していたため、企業が事業を行う資金は株式発行・社債・間接金融など、不特定多数の少額資金を集めて運用することで充当してきた。これは日本に限らず、経済成長が著しかった産業革命以降の先進国においては一般的に見られた傾向である。その中でも、日本は国全体の資金が少なかったワリに資金需要が旺盛だったため、特に間接金融に頼る比率が多かった。

近代社会も初期においては、近世において富を蓄積していた貴族や富裕市民の資金をベースに、彼らが投資家となって事業に投資して起ち上げるパターンが多かったが、20世紀に入って大衆社会化が進んで以降、事業規模も事業者数も拡大し、そのような個別対応の投資では需要に応じきれなくなったため、金融機関が中に入り、庶民の少額の預金を集めて、それを運用することで資金需要を満たす形態が一般化した。

今でもアメリカなどでは、ごく少数の超資産家が個人投資家となり、自分の目で判断して将来的可能性が高いと思われるベンチャー企業等に積極的に投資する事例が多い。さらに成功したベンチャーのファウンダーが、エクジットしてから投資家に転身し、その目利きを活かして次世代の成長企業を見抜き、そこに多額の投資をして支援することで成功に結び付けている事例も多い。とはいえ組織による投資と、個人による投資は、その判断の基準が大きく違う。

金融機関など組織による投資は、その運用にかかわる人々があまりの多く、全体的なコンセンサスを作るのが難しい。そもそも、資金も不特定多数から集めていることが多く、その全員に対し納得性を持たせる必要がある。ファンドマネジャーが、「無名だが、成長間違いなし」と太鼓判を押すベンチャーがあったとしても、それをファンドに組み込んで資金をそこに投資するためには極めて障壁が大きい。

そのベンチャーの可能性を見抜くのはある種の審美眼であり、理屈ではない。したがって同じレベルの審美眼を持っている相手ならいざ知らず、そうでない一般の金融商品を購入する顧客にそれを理解させることは極めて難しくなる。こういう構造があるからこそ、機関投資家による投資先の選び方は、おいおい無難になりがちである。ハイリスク・ハイリターンはそれを謳った一部の金融商品に限られ、多くの場合ローリスク・ローリターンを狙うことになる。

一方、個人の資産家が投資する分には、リスクも含めて可能性を評価し大胆な投資ができる。当人が肚をくくれさえすれば、ハイリスク・ハイリターンであっても可能性にかけることができる。さらにポートフォリオとして、資産の過半は安定的なローリスク・ローリターンの運用を行うが、資産の極一部の一定割合を、いわばスターバックスのトッピングのようにハイリスク・ハイリターン商品に投資することで「お楽しみ」を買うこともしばしば行われる。

もちろん、アメリカの個人投資家は全てをハイリスク・ハイリターンに投資するギャンブラーではない。このようにポートフォリオの組み合わせの問題である。機関投資家のポートフォリオが、元金の目減りのリスクを重視して全て安定的投資先の組合せを選ぶのに対して、個人投資家もマジョリティーは安定的投資先を選ぶものの、いわば「お楽しみ」のトッピングとして、多少リスクがある銘柄、極めてリスクは大きいが当たれば大きい銘柄などもある程度まぶして投資する。

多少コケても、自分で許せる範囲まではお楽しみに賭けられるのが個人投資家の強みだ。 いいアイディアを持つ人間が、そのアイディアを実現する資金を得られるかどうかは、そのアイディアやプレゼンテーションの問題以上に、そこに投資する人間がいるかどうかにかかっている。従って夢に投資する余力を持っている個人投資家が多いマーケットほど、資金は集まるしベンチャーも成功する可能性が高まる。これがアメリカの強さの秘密だ。

ユニークなアイディアや、チャレンジングな技術力を持っている人材は、どの国にも同じように存在する。しかし、それを実現できるかは「投資家」がどれだけいるかにかかっている。このように、金額こそ限られているものの、ハイリスク・ハイリターンな投資先への投資の可能性を追求できる人がどれだけいるかが、その国のマーケット、ひいてはその国の経済力の強さを決めるポイントとなる。

明治時代の日本の近代化を支えた底力も、それに近いものがある。当時の日本政府は財政が弱く、その限られた資金だけではとても日本の近代化はおぼつかず、上からだけで富国強兵を行うことは事実上不可能であった。そんな時代に、列強に追いつき追い越せと経済力を発展させる原動力となったのは、篤志家達の力だ。金があって、夢を評価できる人、夢に投資する余力を持っている人がいるかどうか。

そのような人々の資金が効果的に投入されたことが、列強に伍した国になれるか、列強の軍門に下るかの成否を分けることになった。理屈で判断するとリスクばかりで危険な投資も、夢や感性で判断すれば、やらなくては、成功させなくては人類の未来はない、重要な事業となる。こういうロマンと使命感があってこそ、新しい時代を築くブレークスルーを作ることができる。夢と希望こそ、あえてリスクと四つに組むことでチャンスを捉まえるエネルギーとなる。

かつての日本のように高度成長の途上にある段階では、常に資金が不足し資金を集めることが経営上の至上課題となっていた。限られた資金を効果的に経済成長に投入するという視点から、国が音頭を取る「傾斜生産方式」や、銀行に細かい資金を集めて効率的に運用する間接投資が、資金調達の主流となってしまった。これらの投資は、右肩上がりの高度成長というベースがあったからこそ、ローリスクな割にはリターンが見込まれたため、このような資金運用が一般的になってしまったのだ。

その時代に秀才が重用されたというのも、このような資金運用がなされていた時代だったカラダ。しかし、今や経済状況自体が大きく変化してしまった。勉強ができる人、偏差値が高い人が、エリートでエラいのではなく、資産を持っていてそれを適切に運用することで社会を活性化している人こそ、エリートでエラい。こういう考え方を社会全体が持つようにならなくては、これからの時代の成長は得られない。


(21/01/22)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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