時間軸の支配者





地上波テレビの娯楽番組の衰退には、いろいろな理由がある。地上波テレビそのものの構造的な問題もあるが、娯楽番組特有の問題も多い。特にフジテレビの不振の原因として顕著だが、バブル期のような潤沢な予算がないので、しっかりと金と時間をかけて面白いコンテンツを作ることが許されなくなったという事情は大きい。バブル期の娯楽番組は、本当にしっかり予算をつぎ込んで面白い作品を作っていた。

不信の原因にはこのような予算不足という問題もあるが、演出が「引っ張り過ぎ」というのも視聴者が飽きてしまう原因となっている。引っ張るというのは、ある意味自分たちの提供するコンテンツに、視聴者が興味を持っていてくれるはずだという思い込みの裏返しだ。それが度を過ぎると、制作者と視聴者の間の信頼関係やいい意味での緊張関係が崩れ、「もうついていけないや」と呆れられることになる。

もともとバラエティーなど娯楽番組の演出としての「引っ張り」は、ほとんどのテレビ受像機がリモコンで操作するようになった1990年代に、間延びした瞬間があると視聴者がすぐにチャンネルを変えることから、ティージングしてチャンネルを変えさせないための手法として編み出された。いいところまで見せておいて、「続きはCMの後で」というヤツである。続きの期待感から、視聴者はCMに入ってもチャンネルを変えずに見てくれる。

チラ見させておいて興味を惹き、その先は後で出すことでいつ出るかわからない期待感からチャンネルを変えさせないというやり方だ。このやり方は功を奏し、その後個人視聴率・分刻み視聴率が発表されるようになると、視聴者を捉まえるための定番手法となった。今やバラエティーだけでなく、ドラマやスポーツ中継、果てはニュースなどの報道番組にまで取り入れられるようになった。

それから20年、かつて潤沢だった予算は底をつき、いまやいかに低コストでコンテンツを作るかが地上波テレビ界の最大の経営課題となった。皮肉なことだが、かつて売り上げの低さにあえいで、苦肉の策として低予算番組を編成していたテレビ東京やテレビ朝日が、逆にその時に蓄積したローコスト番組のノウハウを生かすことで、一躍競争のトップに躍り出たことがそれを示している。

こういう時代になると、引っ張りも意味が変わってくる。少ない予算で番組を制作するために、いわば「水で薄める」ことで、少ないシーケンスでより長い番組を作るための手法となってしまった。これははっきり言って姑息である。1970年代に薄いコーヒーをブラックで飲む「アメリカン」が流行ったことがあったが、あれは本来の軽いローストの豆で淹れるのではなく、「お湯で割ったらアメリカン」になってしまった。

「引っ張り」もこれと同じである。一番これのワリを喰ったのは、クイズ番組であろう。クイズ番組も「引っ張り」で薄めた演出をするようになった。これとともに、クイズは早押しを競うものから、一問一問のリアクションで見せるものに変わってしまった。サクサク痛快に答えを出す回答者よりも、当然答えはわかっていても、いろいろ悩んで右往左往している演技がウマい人ほどもてはやされるようになった。

しかしこういう演出は、それを面白がって好む視聴者がいる一方で、自分も参加しているような気分になって一刻も早く回答を導くのを楽しむ元来のクイズ好きの視聴者が離れていってしまうきっかけとなった。自分は答が分かって早く正解を聞きたいのに、タレント回答者は悠々と制限時間をフルに使って、あたかも思案に難儀しているような演技を延々と見せる。まあ、これも芸の一種といえばそうなのだが、これではクイズ番組ファンが離れていっても仕方ない。

実は時間軸に沿ってシーケンシャルに見せるエンタテインメントは、その構成が非常に難しい。それは物事を捉える時間軸が人によって千差万別大きく異なるからだ。特に限られた予算の中で一時間モノとか一定の長さのコンテンツを作らなくてはならない昨今の状況の中では、どうしても少ないネタで引っ張りまくる演出にならざるを得ない。しかしそれではクドくて冗長な画面になってしまう。

それを面白がってくれる人もいるが、いつまで経っても話が堂々巡りで前に進まない状況に、もうついていけないとばかりにザッピングしてしまう視聴者も多いのだ。ひいては「どうせ地上波は」とばかりに、そもそも地上波にチャンネルを合わせなくなる人も多くなる。もっとも地上波離れは、冗長な演出以上に新聞同様上から目線で「煽りニュース」を繰り返す報道部の姿勢に視聴者が呆れ果てたからという影響の方が強いのだが。

かつてエンタテインメントは、映画でもテレビでもステージでも、コンテンツを「鑑賞」するものだった。演者や制作者と観客との間には、明らかに情報流通において非対称的な関係が成立していた。その分、一旦見始めた観客はひとまずそのコンテンツを終わりまで見ざるを得ず(特に有料コンテンツにおいては)、この点においては演者・制作者の側には「上から目線」が許されていたといってもいい。

しかし1990年代以降、社会の情報化の進展とともに、生まれたときから情報メディアに取り囲まれて育ち、高度なメディアリテラシーをネイティブに獲得した世代が主流になると、この関係が一変し、「上から目線」は極度に敬遠されるようになる。同時に、最初はパッケージメディア、次いでインタラクティブ・メディアと、送り手が時間軸のシーケンスをリアルタイムでコントロールできないメディアが、コンテンツ伝達の主流となってきた。

地上波テレビの制作者も、視聴者のリアクションから皮膚感覚としてこの傾向は感じ取っていたものと思う。とはいえ、予算削減が至上命題となってしまった中では、苦渋の決断として「引っ張り」技に縋るしかなかったのであろう。とはいえ、それでもテレビを見てくれる「三丁目の夕日」の「テレビが家にやってきた日」を記憶しているシニア層は、数が多くて財布も大きいのでターゲットたりうる。かくして地上波は水増しコンテンツばかりになってしまった。

このリテラシーチェンジは、ゲームの主流の変化も引き起こした。かつて(コンピュータ系)ゲームといえば、ほとんどがシューティング系だった。シューティング系は、プログラミングした側が決めた予定調和の中でしか展開しない。その嚆矢たる「スペースインベーダー」や、最初の頂点ともいえる「ゼビウス」など、プログラムを逆読みするような「必勝法」が編み出されると、今度はどれだけ早くクリアできるかとか、どれだけ弾を使わずにクリアできるかを競うものになってしまった。

送り手にあわせることが「上から目線」として忌避されるようになった今では、決まった時間軸の中でしか展開しないシューティング系のゲームが衰退し、ゲームの主流はユーザが自分で時間軸を決められるRPG・シミュレーション系のモノになっている。ファイトシーンがあったとしても、かつてのアーケードのように、必勝法に最適化したワザをどれだけスマートに繰り出せるかを競うものではない。ゲームユーザによって、闘いのパターンも時間も異なってくる展開になる。

作る側も、ある決まった流れを前提に展開してゆくのではなく、プレイヤーの状況ごとの対応で、どんどん想定外に世界が広がるように構成するようになった。いわばプレイヤーの数だけ楽しみ方やシナリオができる組み立てである。もちろん、このような世界観の変化は、今や主流となったスマホのオンラインゲームとの相性という面も確かにあるのだが、生活者の嗜好の変化も大きい。

とにかく上から目線で押しつけがましいのだ。自分の時間軸は、自分でコントロールしたい。他の誰かに支配されるのはなによりもイヤだ。これが、ライフステージや階層を問わず、今の生活者の基本的な気持ちとなっている。コンテンツに限らず、今の時代においてヒットするかしないかは、この「自分の時間軸を、自分でコントロールできるかどうか」というところにある。

そういう意味では、高度成長期には当たり前のように思われていた、社畜・モーレツ社員のような滅私奉公が「ブラック企業」として忌避されるのも、この自分の時間軸を他人に支配されたくないという気持ちの現われであろう。もっとも、だからといってポジティブな意味で自分の時間を使える生活者も少数である。かくして、純粋消費者としての「大衆貴族」は増える一方である。やはり、この層を捉まえるのがヒットのカギというのは間違いなさそうだ。


(21/01/29)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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