天才と秀才の間に





秀才は地上から見る、天才は空から見る。地を這う生き物と、空を飛べる生き物。二次元と三次元。そのぐらい、発想の構造そのものが異なるのである。秀才は知識を駆使して、課題からスタートし、ステップ・バイ・ステップで一段づつ問題をクリアすることで、演繹的なフォアキャスティングで答えに到達してゆく。天才は閃きを駆使して、直感的に答えを出してしまい、どう現状の課題からそこへどう導いてゆくのかを、帰納的なバックキャスティングで結び付けてゆく。

どちらもその答えはそれぞれのソリューションに到達しているのは確かと思うが、その提案内容は次元が違うのだ。二次元の世界に生きている生物からすると、三次元の世界に生きている生物の生きざまの全貌を完全に理解することは不可能である。それとおなじことがここでも起こっている。次元が違えば、オプティマイズする方向も違う。秀才の出す答えと、天才の出す答えは、そもそもそれによりもたらされるものの質も構造も全く異なるのだ。

情報理論においては「情報エントロピー」という考え方がある。熱力学の概念を援用した理論だが、ある閉じた情報系の中では今までにない情報が系外からもたらされない限り、系内の既存の情報を繰り返して利用し続けることで情報エントロピーが上昇し、最終的には全ての情報が無意味になるカオスの状態になってしまうという理論である。この理論を用いると、いままで相互に理解することが難しかった天才と秀才の答えを導き出す発想に関する構造的な違いがよくわかる。

秀才がいくら答えを出しても、情報エントロピーを下げることはできない。それは既知の答えの組み合わせにより、新たな答えを導きだしているだけで、何もないところから答を生み出しているものではないからだ。熱力学のエントロピーと同様、情報エントロピーも閉じた系の中で放っておけば、どんどん増大してカオスになってしまうわけだが、秀才が知識として学習した情報から答えを出している限り、行きつくところはこの情報におけるカオスしかないことをこの理論は示している。

具体的に言うなれあば、既知の答えの組み合わせによる答えはあるところまで行き着くと、いつまで経っても同じ答しか出てこない堂々巡りに陥ってしまうため、答えを出したところで何の解決にもならなくなってしまう。これが情報理論におけるカオスである。ある意味、バブル崩壊以降の日本の経済社会の低迷こそ、官僚や大企業トップとして君臨していた秀才エリートがこの状態に陥ってしまったことを示している。

その一方で天才の出す答えは、全てがすべてとは言わないものの、場合によっては情報エントロピーを下げる可能性も含んでいる。いわゆる「前人未到の発想」である。それは、直感で得た答えの中には、既知の答えの組み合わせにより出せるものもあるかもしれないが、そこからは出てない全く斬新な答えになっている可能性も含んでいるからだ。この「天から降ってくる」発想は、勉強や努力だけではどうしようもない領域である。

確かに20世紀までの産業社会の時代においては、努力の先に可能性が生まれるというスキームもあった。特に後進国においては先進国の先端技術を学び、それをそっくりに再現できれば、それなりに評価され自分にとってのチャンスも生まれたからだ。太平洋戦争中にドイツからひそかに運ばれてきたBMW製ジェットエンジン・ユモ003の図面だけで、実際にジェットエンジンを製作し飛ばしてしまったIHIの技術者などその典型例だろう。

しかし情報社会になった今となっては、盲目的に「ひとまず努力」と頑張っても、そこからは何も生まれない。グローバルに情報化した現代社会においては、「すでにどこかで実現している」ことを「再現」することには、ほとんど意味がなくなってしまったからだ。 直感的に感じ取った輝く目標が先にあり、それを実現したり、そこに到達したりするためにのみ、努力の意味がある時代になっている。

答えがわかっている人しか、努力する意味がない時代になっているのだ。アートの世界ではかなり前からこのような状況が現出している。テクニックだけは並外れてあるし、それを鍛えに鍛えぬいている実力はスゴい。しかし、自分で表現したいモノがそもそもない。そういう人たちが、美大や音大にはごろごろいた。表現者でなくとも凄腕の職人であるだけで、それなりに仕事があった時代だったのだ。

だが今の時代、これでは表現者ではなく、最高のモノまね芸人になるしか道は残っていない。確かに名人クラスのモノまね芸人は、極めて歌のテクニックが高い。だが、それだけでスターになったのではない。芸人として面白いからこそ、スーパースターになれたのだ。しかし、そのためには芸としてウケるかどうかという別の厳しい関門が待ち構えている。

今や「一発芸」は登竜門としてのyoutubeでこそウケるものの、その先に人気芸人として生き残れるかどうかは、厳しい実力が問われている。ここから先は、表現者としてはいざ知らず、芸人としてはたぐいまれな才能を持っていなくては、次がないのだ。せいぜい地下芸人としてコアなファンだけを相手に受けるか、ピンでは出れないガヤ芸人になるかしかない。そういう意味では、情報社会とは努力の化けの皮を剥がす強力な実力社会である。

かつてファーストガンダムで「ニュータイプ」という概念が登場した。その定義は曖昧だったが、新たに現れた何かが、それまで均一・平等と思われてきた人間を区分けし、「何か以上」と「何か以下」という二つのクラスタに峻別してしまうという極めて慧眼なコンセプトである。まさにその時代から始まったコンピュータ・コミュニケーション革命がもたらした情報社会は、コンピュータが人類を振り分ける存在となった社会である。

これは必然的で不可逆な道である。古い時代に染まった人間にとっては、理解できないし、対応できない現象であるかもしれない。産業革命時のラッダイト運動のように、ただひたすら拒否し、反対し、暴力的に破壊しようとする人達もそれなりにいるだろう。しかし、時代は進むのだ。そういう時代についていけない守旧派もいつかは命尽きてこの世から消えてゆく。そうならば、来るべき時代を先取りして可能性に賭ける方が,余程チャンスを捉まえることができるだろう。


(21/02/12)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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