左翼は軍隊、体育会





左翼というのは、一見個人を大事にするような体裁を取っているが、その実、全体主義、強権主義で、世の中を一色に染め多様性を許さない絶対性が特徴である。これは20世紀の偉大なる(しかし大いなる犠牲を払った)社会実験たる、鉄のカーテンの向こう側の共産主義諸国の顛末を見てみれば容易に理解できるだろう。そこにはヴィジョナリストたる哲学者マルクスが描いた夢の未来社会とは、似ても似つかないようなディストピアな国家や社会体制が現出していた。

しかし、そのような全体主義、強権主義になぜか惹かれる人達がいる。まあ、そういう志向の人が一定数存在するから左翼政党が存立できるわけだし、実際、社会主義・共産主義を国是とする国家も20世紀には成立してしまったのだ。そういう権力を支持する者、それは「自分」を確立できていない人達だ。強く大きな組織に所属し、その一員として行動規範や発想も組織の基準に合わせることで、はじめて自分の居場所を見つけられる人達である。

ある種の大衆宗教も、「寄らば強大な権力の陰」とばかりに、これと相似形の構図を持っている。そういう意味では、権威にすがりたいという人間はどの社会でもそこそこいるし、左翼や大衆宗教はその「心の隙間」にそっと入り込むことで、自らの勢力圏を拡大しているということができる。このような彼等は「平等」を主張するが、それは自我を持つ対等な人間としての平等ではない。強権の下では、自分を確立していようがいまいが、無力な一人の人間という意味で違いがないというコンテクストでの「平等」なのだ。

確かに「持たざる者」という概念は、19世紀のエンゲルスの共産党宣言の頃からあった。「持たざる者」だからこそ、強い権力にすがりたくなる。まあ、その気持ちもわからないことはない。もちろん、思想信条の自由があるから、そういう考えもあっていいし、そういう権力にすがりたいという願望があってもいい。問題は権力にすがるしかない人を寄せ集めて政権を握り、自分はエリートとしてそこで権力を握ることをもくろむ指導者たちの存在である。

この「すがる多数の大衆」と「権力欲に取りつかれた少数のエリート」という構図こそが、19世紀に社会主義、共産主義の考え方が生まれて以来の左翼の本質である。これも生き方の問題だし、勝手に信奉している分には全く自由である。ただ問題になるのは、こういう思想を信奉する人達は、大衆の方もエリートの方も、自分達の願望を実現する上で邪魔になるので、価値観の多様性を否定する点である。すなわち社会や国家の中には、自分達と同質の人間しかいるべきではないと考えるのだ。

そもそもルーツがそういう体質なので、実際に社会主義政権を樹立した共産主義政党においては軍と党が一体化し、ソ連の赤軍や中国共産党の八路軍などのように、党組織自体が軍隊を持ちその軍事力が社会主義革命の推進力となった事例も事欠かない。もっともそのパロディーのようにまるでままごとのような軍事組織になり、その挙句に自己崩壊してしまった連合赤軍などというのまで現れた。このように左翼とは、本質的に全体主義的で軍国主義的なのである。

右翼系テロリストが「一人一殺」の血盟団のように個人刺客型になることが多いのに対して、左翼系テロリストは軍隊組織を真似たテロ集団になることが多いのも、この軍隊的体質が影響しているのであろう。そもそも他に行き場のなくなった人達集めて、その「数」で勝負するのが昔からの左翼の戦術である。そうである以上、そのような組織を機能的にコントロールするには上意下達の軍隊型ライン組織にならざるを得ないのは仕方ないところだ。

少数のエリートが支配し、数多くの無名の庶民の数を頼りにその権力を正当化するというのは、レギュラーになれるのは一握りだが、そうでない人達にも年功制という序列で居場所を与えることにより、エリートのポジションを安泰なものとする体育会組織とうり二つである。かつて学生運動が華やかだった60年代末には、新左翼のセクトと右翼の体育会はハゲしく対立し、暴力的な抗争も勃発していた。これも水と油ではなく、同じ穴の狢の一神教同士の争いと考えれば、なるほど合点がいく。

そして、左翼勢力内の内ゲバが激しいのも、この性質に由来している。別に新左翼過激派に関わらず、労働組合でも、平和運動でも、左翼が関わると必ず派閥対立が生まれ、そっちの方が本来の主義主張より重要化してしまうことは、社会主義が生まれて以来200年の歴史が示しているところである。その性質上エリート同士が権力闘争をしたがるのだが、排他的なイデオロギー性から、自分と違う派閥は「異端」として粛清し抹殺しなくては気が済まなくなるのだ。

ヴィジョナリストであったマルクスの描いたユートピアという原点に立ち戻って考えれば、それを受け継ぐものは決して「左翼」や「共産主義者」にはならないことはよく理解できるだろう。そもそも体育会や軍隊型の全体主義が好きな人達が、エンゲルスがマルクスの思想を換骨奪胎して政治プロパガンダにした「共産主義」を自分たちの行動を正当化する隠れ蓑に使っているのが「左翼」なのだ。

貧しい開発途上国と豊かな先進国では、本来のマルクスの思想の受け入れられ方が違うはずだ。20世紀初頭のロシア、20世紀半ばの中国など、限られた富の取り合いになる貧しい国における現実としての「社会主義」と、マルクスが夢見ていた富が溢れる国におけるユートピアとしての「社会主義」とは、全く違うものである。世界が豊かになった今こそ、エンゲルスを排して、本来のマルクスが夢見ていたユートピアの姿をもう一度描いて見せることが必要なのではないだろうか。


(21/02/19)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる