インターネット2.0





情報化社会が語られるようになった1970年代以来、有識者は情報化された未来というと、バカの一つ覚えのように「誰もが自由に情報を発信できる社会」を描き続けてきた。仏の顔も三度とはよく言ったものだが、ことこの問題に関しては「ニューメディアブーム」「マルチメディアブーム」「インターネットブーム」「ネットバブル」「インタラクティブブーム」等々、十年ごとにバズワードを書き換えては同じような騒動を繰り返してきたことは記憶に鮮烈だ。

アカデミックな権威の先生は、この手の新しいメディアが出てくるたびに、決まって「誰もが情報を発信して主役になれる」と嘯いてきたのだ。権威のある先生方は、1980年代から新しいテクノロジが実用化され、それを活かした新しいサービスが生まれるたび、バカの一つ覚えのごとくにこの「狼少年」を繰り返してきた。そういう意味ではもう半世紀近く「狼が来るぞ」が繰り返されているが、未だに一向に狼が出てくる気配はない。

百歩譲って好意的に見れば、アカデミックな先生方は論文や研究成果、調査データなど発信すべきコンテンツをたくさんお持ちなので、学会や論文誌以外でそれらを直接発信できるという喜びのあまり、「誰もが情報を発信して主役になれる」と言ってしまうのかも知れない。だが、世間全体から見ればアカデミックな先生方というのは、ごくごく一部の例外的な人々である。一般人からすればキャズムの向こう側の果てにいる世間から遠く離れたエッジな人々に過ぎず、そのような視点では決して「普及」しないことは明らかだ。

さて2010年代に入ると、スマホとSNS等UGMの普及で幼児から老人まで、まさしく誰でもインターネット上に足跡を残す書き込みができるようになった。こういうインフラ環境が整ってしまうと、「ハダカの王様」の姿が顕になってしまう。確かに「情報」は発信できる。しかしその「情報」が価値ある情報であることは極めて少ない。世間全体でいえば「ノイズ」であり、逆に情報を混乱させることにより正しい情報を埋もれさせ、情報エントロピーを増大させてしまうたぐいの「情報」がほとんどである。

もっと詳しく言うと、人の心をわくわくさせたり楽しませたりする「コンテンツ」は、世の中に流れる「情報」のごくごく一部である。ほとんどの情報はビッグデータの中身のような、それだけでは面白くもなんともないものばかりである。そして誰でも発信できる「情報」の実態はこっちの無味乾燥な情報の方なのだ。すなわち誰でもインフラとして「情報」発信できても、「コンテンツ」たりうる「情報」を発信できる人はごくごく限られている。

すなわち機械的に情報発信可能なインフラが整った分、「コンテンツ」としての情報を発信できる人と、そのような「コンテンツ」を受信する利用がほとんどの人と、インタラクティブメディアの使い方が分離してしまったのだ。これにより、かつてのレガシーメディアの時代より、もかえって発信する人と受信する人の構造的格差が大きくなってきたことに気付かなくてはならない。

要は、「かつてのテレビ」のようにUGMに接している人と、「かつての投稿雑誌」のようにUGMに接している人の二つのタイプができてしまっているとともに、この両者が相容れない別の存在になってきているのだ。そしてインタラクティブメディアが広く普及してしまったがゆえに、前者のような利用をする人がユーザの中では圧倒的多数であり、後者のような人達はその存在感こそ大きいが、数的には圧倒的に少ない状況になってきた。

古今東西を問わず、ステージの上の演者やピッチの中の選手よりもそれを見て楽しむ観客の方が圧倒的に多数であることからもわかるように、発信者と受信者は非対称的である。それはそもそも、誰もが情報を発信できる環境かどうか以前の問題として、発信すべきコンテンツを創り出せる才能を持った人間は全体の中では少数だからだ。半世紀にわたる社会実験がそれを示している。喰った昼飯の写真は記録ではあるがコンテンツの発信ではない。

普及するためには、ボリュームゾーンの人たちがこぞって使うようになる必要がある。そして、そういうマスな人達は自分で発信すべきコンテンツを創り出せるわけではない。マスに普及したということは、インフラの構造はインタラクティブではあっても、コンテンツ流通としてはマス型になったということである。ネットフリックスは、ストリーミングで作品データを流しているものの、ビジネスモデルとしてはペイ・パー・チャンネル型のペイテレビそのものである。

もちろん素人であっても、偶然面白いコンテンツが撮れてしまうことはある。たまたま飼っているネコのかわいい動画が取れてバズることはあるだろう。しかしそれは「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の「おもしろビデオコーナー」と同じことである。狙って作ったオモシロ映像を投稿し、それがスタッフの目に留まって映像作家になった人もいるが、それは人数的には例外である。多くの投稿者の作品は偶然のなせるワザであり、結局は一発屋でしかない。

かつてはラジオの深夜番組や投稿雑誌のようにスタッフが面白いもの選んで、その作品をオンエアしていたのが、youtubeになって玉石混交のまま顧客に届けられる中から、市場原理という見えざる手によりウケる作品が選ばれるようになっただけである。この選ぶのが視聴者の市場原理に基づくようになったというところがミソである。これが結果的に送り手と受け手の格差を拡大してしまったのだから皮肉である。

かつての投稿番組ようにスタッフが作品を選ぶものは、応募させる敷居を下げる必要があるので、毎回ある程度いろいろなレベルの作品を頭数を合わせて選ぶのに対し、直接受け手が市場原理により選ぶ場合、強力なバズを引き起こすのはごく一部の本当に面白いものだけになってしまう。偶然当てた「一発屋」のネタはさておき、強力なバズを繰り返して起こせるのは、相当にレベルの高い「芸人」である。

確かに、この数年youtubeが芸人やタレントの登竜門になっているが、人気が出る人は非常に才能がある。これをクリアするレベルの人材なら、昭和の時代のスカウト番組や、平成の時代のストリートパフォーマンスといった、それぞれの時代のタレントの登竜門も間違いなく通過して頭角を現したに違いない。ロングテールならマニアックな素人芸も受ける可能性はあるが、今やインタラクティブメディアがショートヘッドであり、マスなのだ。

だから、もはやかつてのような「インターネット」観は通用しない。今やインタラクティブメディアこそがマスなのだ。特にビジネスモデルを考える上では、これは重要なポイントになる。もちろん、旧来型のロングテールなインタラクティブビジネスは今後も残り続けるだろう。しかし、インターネット2.0というべき、マスとしてのインタラクティブビジネスこそがこれからのメインストリームである。これに気付かず中途半端なレベルのビジネスモデルにしがみついていると、シャッター商店街になってしまうことを強く肝に銘じるべきだ。


(21/03/05)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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