前例主義の意味するもの





秀才は前例に従い、天才は前例を作る。残酷なようだが、それぞれの役割は根本的に次元が異なっている。秀才エリートの集団である官僚組織が極度の前例主義になっているのも、そもそも秀才の本質に則っているだけであり、秀才の行動様式を純粋化した組織原理と考えればそこに他意はなく実に理解しやすい。これは秀才のパワーの源である「知識」とは、まさに前例を体系化したものに他ならないからだ。「知識」にないことはできないのと、前例がないことはできないというのは同値である。

過去を勉強しないのが天才である。天才の中には湧き起こってくるエネルギーがある。外側からエネルギーを吸収しなくとも、核融合のように内側から新たなエネルギーが発生してくるのだ。そしてそのエネルギーが全ての活動の源となっている。だからこそ、周りを気にする必要はないし、過去を学ぶ必要もない。その分天才が気にするのは、自らが拓く未来の可能性だけである。このように自分の思いのまま突き進み、無限の荒野に新たな道を拓くのが天才だ。

一方、秀才はすでに出来上がった道を進む。そして出来上がっている道を速く駆け抜けることこそ秀才の得意技だ。従ってその道が高規格の高速道路であればあるほど、秀才が得意な世界に入れる。だが、無限の荒野の道なき道を突き進むことは極めて不得手である。あっさり泥沼にスタックしてしまうのが関の山である。しかしすでに道があるということは、そこにはその道を築いた先人がいるのだ。そして秀才はこのような道を築く先人にはなれない。

前例が有効か有効でないか、それは置かれた時と社会の構造が決めることだ。前例主義が極めて効率的に機能するシチュエーションも多々あり、それで成功をおさめた事例も歴史を紐解けばいくらでも見つけることができる。たとえばそれが一国の社会であっても人類社会全体であってもいいのだが、社会全体として現状のスキームがまだ成長の余地を多く持っている場合には、前例もかなり有効である。

19世紀になって西欧列強の先進国が産業革命の成果を自家籠中のものとして以降、アメリカや日本が続いてテイクオフを迎えた。このような後発国においては、まず西欧先進国の先端技術を前例として学び、それを自分のものとすることで産業革命を達成した。その上で、それらの技術にさらに改良を加えてゆくことで、20世紀に入ってから経済成長を実現させたことなど、その典型的な事例である。

もっとも「追いつき追い越せ」とは言うものの確かにアメリカは、追いついた後に独自の新技術を開発し伸ばしていったことで、第二次世界大戦後にはかつてヨーロッパ列強だった国々が全部束になってもかなわないくらいの超大国へと成長した。日本は、必死にマネて追いつくところまでは行ったものの、そこで持っているリソースを使い果たして燃え尽きてしまい、最後まで「追い越す」ことができない万年二位の大国に甘んじた。

産業社会は、大量生産・大量消費のマスマーケットの経済である。だから一つ一つの市場が極めて大きく、かつ上方弾力性に富んでいる。このため前例主義でも相当な成長が実現できたし、実際日本はそれで世界第二位の経済大国にまで上り詰めることができた。いわゆるスリップストリーム走法と同じで、トップにピタッと着いていけば、自分のエネルギーをさほど使わずに2位をキープできる。しかし、それだけでは決してトップになることはできないのだが。

マスマーケットでの勝負は、基本的に価格戦略に収束する。勝ち組になるには、同じモノをより安くより効率的に生産することでシェアを拡大するペネトレーション・プライシングか、同じ値段もしくはより高い値段でより高品質で付加価値の高いモノを生産するスキミング・プライシングか、どちらかしかない。漫然と同じモノを作っていたのでは、競争相手に足元を掬われてしまうことになる。

こういうリニアな構造は、まさにすでにある「道」である。そして、ペネトレーション・プライシングにしろスキミング・プライシングにしろ、マーケティング戦略の成功事例は数多くある。「道」があって、その必勝法もわかっているというのは、秀才がもっとも得意とするシチュエーションだ。20世紀の100年間はこのような前提が続いていたが、それは永久に不変なわけではない。そして21世紀に入って情報社会の到来とともに、この「前提」があっさりと崩れだしたのだ。

日本の衰退についてはいろいろな考え方ができるだろう。しかし突き詰めて言えば、産業社会に最適化し過ぎて情報社会のスキームについてゆけなくなったということになろう。その際たるものが、秀才エリート集団たる官僚機構の構造的陳腐化だろう。そもそも官僚組織は情報社会と相容れない。昨今起こっている官僚達の不祥事の数々は、彼等が世の中についてゆけなくなっていることの証である。

そうであるなら話は早い。腐った林檎は林檎箱から排除すればいいだけだ。下手にそのまま置いておくと、どんどん周りが腐りだす。社会の中にはそれなりに天才は存在している。秀才を排除し、天才を重用する社会にすればいいだけである。そのためには自然に競争原理が働くようにすればいいし、もともと情報社会とはそういうフラットさを持っているものだのだ。これを活かすには、それに棹刺そうとする産業社会の既得権者=守旧派を排除すればいい。それだけである。


(21/03/19)

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