知識は無意味





コピペ厳禁とか言っている大学の先生が、結局自分の考えを持たず、持っているのは過去に勉強した知識だけだったりすることは多い。いわばアナログコピペをした借り物の意見の塊でしかない教授が、学生のコピペを批判するというのは笑止千万である。勉強して知識を蓄えるとは、すなわち頭の中にアナログでコピペすることだったのだ。自分が発見するわけでも、その学問の歴史を自分の中で辿り直すわけでもない。ただ先人が導き出した答を覚えるだけである。

知識とは結局いくらあってもコピペである。知識とは過去にすでに蓄積されていた情報であり、知識を用いるということは、すなわち過去の情報を引用することに過ぎない。 ある意味IT技術・ネットワーク技術が進歩することで、人類は自分の脳の中にとどまらない膨大な外部記憶装置を入手した。これにより、人間の中で行われていた情報処理と、コンピュータにより行われていた情報処理がリニアに繋がるようになった。そしてその結果、情報処理という視点からは、この両者を分けて捉える意味がなくなってしまった。

すなわち情報処理という面からその行動をトポロジカルに捉える限り、勉強して知識を蓄えることと、データをコピペすることは全く同値である。このように情報社会の到来というのは、人類が文明を持って以来のパラダイム・シフトを引き起こすことになる。もちろんそれは1970年代にマイクロコンピュータが登場した時から、わかっていた人には予測されていた未来だし、当然その時代から来るべき変化として語られてきた。だが多くの人にとってそれはSF小説のような夢物語であり、現実に自分の身に降りかかる問題として捉えることは難しかった。

情報化社会においては、基本的に外部記憶化した情報をいくらでも自由かつ即座に利用することができる。かつては「知識」として脳の内部に記憶した情報しか利用できなかったため、知識の量がある意味「知力」のバロメーターとなっていたが、今や知識を誇示して、何も始まらない。外部記憶化された膨大な情報も含めて、それをどう利用するのか、そこから何を生み出すのかが問われるようになった。知識の量を競っても虚勢を張っているだけでしかない。せいぜいクイズ王になるのが関の山である。

人間の業には、テクニカルな部分とクリエイティブな部分がスペクトラム的に並存している。アナログの時代においては、クリエイティブな部分で新しい何かを思いついても、それを表現したり形にしたりするためのテクニックがないと、その成果を世に問うことができなかった。社会の情報化が進み、コンピュータとネットワークの発達がもたらしたものは、この「テクニカル」な部分の置き換えである。機械はこういう部分は極めて「得意」であり、ローコストで効率的にこなしてくれる。

芸術でも音楽や美術という分野では、コンピュータの出現により表現のあり方が大きく変わった。かつては自分の作品を表現するためには、音楽で言えば演奏テクニック、美術でいえばデッサン力といったように、「テクニカル」なモノをマスターしていることが前提とされた。だからこそ音大・美大の入学試験においては、テクニックの審査に重きが置かれていた。しかし、コンピュータの登場によりこの構図が大きく変わった。コンピュータを使って表現するのであれば、アナログな手先の器用さは必要ない。

この結果、より本質的なオリジナリティーを発想できるかが直接問われるようになった。音楽においては作曲力やサウンドの構成力、グラフィックにおいてはビジュアルイメージの発想力や創造力がストレートに評価対象となった。逆にテクニックは有り余るほどあるがオリジナルな表現を生み出せない人は、アーティストとしての評価対象外である職人となってしまった。今やピアノの練習やデッサンの訓練といった修行をしなくては表現者になれないと思っている人はいなくなった。

同様に20世紀末の時期には、生産現場においても大きな変化が起こった。NC工作機械の導入により、熟練した職人の技を容易に再現してモノづくりができるようになった。職人の領域においても、徒弟制度的な修行がつきものだったが、その結果自分なりの新しい技術を生みだせるようになるマイスターは少数で、大多数の職人は師匠のデッドコピーにしかなれなかった。マイスターになれるのはクリエイティブな力がある人だけだった。そしてNCの時代には、エンジニアとして必要なのはマイスターだけなのだ。

このような変化が、ついに人間活動の全般に及ぶようになったのが情報社会である。情報社会においては、自分で感じたこと、自分で思った意見、それを自分の言葉で語らなくては何も意味はない。自分で新たな付加価値を生みだせるかどうかは、持って生まれた才能にかかっている。しかし、どんなに才能があっても、自分でなくては生み出せないオリジナルな発想を、自分でなくては語れないオリジナルな文脈で語らなくては、宝の持ち腐れである。自分で自分を語ったといって、それが即付加価値になるかどうかはわからない。しかし、語らないところからはいかなる付加価値も生まれないことは確かだ。


(21/04/02)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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