ほっとけばいいじゃない





成田のホテルで、ミイラ化した死体を「看病」していた集団が発見され、事件化している。この宗教団体は、もともとは自己啓発セミナー屋かなんかだったのが、バブル崩壊以降、コアなメンバーだけが残ってカルト教団化したらしい。ジャーナリズムは、自分達こそ良識だという変な選民意識のなせるワザか、こういう「常識の外側」にしか居場所を見つけられない人達に対しては、執拗な攻撃をかけるのが常だ。今回もその例に漏れず、NATO軍のユーゴ爆撃よろしく、無差別絨緞爆撃をかけている。

確かにミイラ化した死体を「ホテルに持ち込んでいた」という事実は、ちょっと困りモノだ。きっとあたりには異臭がたちこめていただろう。これではかなり近所迷惑といわざるを得ない。この限りにおいては、責任は確かにある。ただこれは、前回の「食品売り場のレゲエ系オジさん」みたいなものだ。基本的には軽犯罪法レベルの迷惑ということになる。だからこれをどっかの山の中とか、人里離れたところでやる分には別に誰も迷惑するモノではない。それはそれで一向にかまわないし、わざわざニュースにするようなモノでもない。

そもそも、死んでしまった人の亡骸を身近に置き、手あつくたてまつりたいという心情は、決して理解できないモノではない。子供とかだと、よく思うじゃないか。死んじゃっていても、火葬にするのがかわいそうだとか。散骨葬にして灰を撒いちゃうのが寂しいとか。なんとか人間の形をしたままで残しておいてあげたいとか。彼らがやっていたこと自体は、それらの感情と大きく変わるわけではない。そういう感情自体は、決して常識外れのモノではないし、理解できる。決して目くじら立てるようなモノではない。

しかしジャーナリズムの取り上げかたは、その感情そのものを批判の対象にしている。これは「常識」の暴走だ。社会通念なんて、所詮は相対的なモノでしかない。それを大見えを切って自分こそが正義だと主張しまくるのは、実に滑稽だ。思い上がりも甚だしい。自分達の殻にこもって、客観的に廻りがみえないという意味では、所詮はジャーナリストも同じ穴のムジナじゃないか。オウム報道のときにも、これが実によく感じられた。オウム批判の「論客」も、オウムを追い出そうとする住民活動家も、自分のよりどころが「社会常識」というだけで、その論理構成・アタマの構造はオウムとそっくりだ。常識も通念も、「定説」と何ら変わりはないというのに。

まあ人間というもの、他人の喧嘩よりは兄弟喧嘩の方が、些細なことから血で血を洗うドロドロの抗争に陥りやすい。セクト活動家の内ゲバ然り。民族紛争然り。自分に似ている分、相手の細かいところがみえてしまうし、それが気になるということなのだろう。多少自分にホモっ気があり、それが自分で気になって仕方ない人ほど、ホモセクシュアルの人達を差別したり、忌み嫌ったりするのも同じだ。そういう意味では、同じタイプだからこそ、彼らは執拗に攻撃するというのもわからないではない。

しかし、それを客観的に考えてみれば、そういう内向きにこもって殻に閉じこもるのが幸せな人達もけっこう多いということになる。そういう視点からは、カルト教団の存在とは、実は社会的にとても大事だということではないか。そこでなくっちゃ幸せが得られない、という人達の避難所として。確かに、その教義を第三者に押しつけるようになると、これは迷惑だ。しかしその宗教団体を、非常識だとか、反社会的だといって切り捨てるというのも、他人に自分の考えを押しつけているという意味では同罪ではないか。

大事なのは、他人に迷惑をかけたり、自分の考えを押しつけたりしないこと。ジャーナリズムも、自分の意見を「オレが正義だ」とばかりに押しつけるな。彼らが、彼らなりに閉じこもって、彼らの「定説」を信奉するなら、それはそれでいいじゃないか。どこか、北海道の原野とかの、見捨てられた開拓地でもくれてやれ。そこにこもってやっていれば、何をやろうと別にいいではないか。それを目くじらたてて批判するのも大人気ない。本当に大人なら、心の狭いジャーナリスト達も含めて、彼らが社会とは切り離されたところで、幸せに暮らせるような活況を作ってやらなきゃ。ほっておいてやれよ。

(99/11/26)



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