マス・ジャーナリズムの終焉





テレビでバラエティーを制作している人達は、個人視聴率が基準となった00年代以降、番組の構成演出の流れと実際の視聴者の流入流出に極めてコンシャス・センシティブになった。続きはCMの後で、で引っ張るのにはじまり、とにかくアイキャッチャーでザッピングの視聴者を引き付けるのと、中身を引っ張りまくって流出させないこと、さらにはテロップであおることなど、一旦つかんだ視聴者にチャンネルを変えさせないことに、その全力を尽くしてきた。

前に触れたように、視聴者もこれには食傷気味になっていることも確かだが、それ以上にヤバいのが報道番組のあり方だ。バラエティーは視聴者の視線を気にしすぎることが問題だが、報道番組は視聴者を無視し過ぎること、馬鹿にしすぎることが問題を引き起こしている。確かにかつて20世紀前半までのジャーナリズムでは、読者・視聴者を啓蒙するという超上から目線の態度が基本になっていた。そして、受け手の側もそれを期待して受け止めていた節さえある。

ところが社会の情報化の進展とともに、人々は「自分の意見を確認する」ためにメディアに接するようになった。まさに、自分と同じように現実を眺め、そこから同じような視線で問題意識を感じている論調にしか共感しなくなったのだ。こうなると、上から目線で「正しいことを教えてやる」という態度のレガシーメディアのジャーナリズムの論調はうっとうしいだけで見たくも聞きたくもないものとなってしまった。

そんな中、2020年に突如沸き起こったコロナ騒動により、新聞もテレビも全く権威を失った。メディア事業者というだけで、偉そうに自分の意見を語る時代ではない。無責任に不安を煽るだけのその報道態度に、人々はついに愛想を付かした。情報メディアは、客観・中立の情報を流し、その判断は受け手である生活者にゆだねる時代になったにもかかわらず、それをまったく理解していない。それどころかフェイクニュースといわれるように、理解していないくせに偉そうに意見する。

テレビの制作者は、視聴者を何とか捉えようという努力をし続けてきた。もっとも最近ではやりたくても予算が足りなくてできないということも多い。その一方で、報道番組の人はまったくそういう視聴者の意向を考えてこなかった。上から目線で脅せば大衆は付いてくるという意識である。おかげでマスコミのジャーナリズムは、お上をありがたがる70代以上の高齢者しか耳を傾けないものとなった。

このルーツは19世紀に新聞がマスメディアになったところにある。いや18世紀の産業革命以来続いているといった方がいいだろうか、今は死語となった「啓蒙」という考え方の構造的問題から来ている。啓蒙とは知っている人が偉いから、かわいそうな知らない人に教えてあげようという、知識主義の考え方である。その構造からして、極めて差別的な発想であり、上から目線そのものの語り口となっている。

いまや情報社会となり、知識ではなく自分がどう考えるかが重要になっているのだ。このような考え方が時代にそぐわなくなってしまったことは言うまでもない。その一方で、流行においてもイノベーター理論が崩れてしまい、少数のエッジな人達を多数が上昇志向で追いかけるというやり方ではヒットは生まれなくなった。これもまた、情報が持てるものと持てざるものとの間の格差によって水のごとく低きに流れることが亡くなったからだ。

私は00年当時、キャズムという言葉が生まれた頃、電通の生活者インサイトチームを率いていた。都心の文化と郊外の文化が全く違ってきて、伝播しなくなっていることをデータからつかんでいた。あたかも国道16号線を境目として、マジョリティーの郊外と、少数派の都会が鬩ぎ合う状況がまざまざと捉まえられていた。まさにキャズム理論とは、その時の国道16号理論だったのだ。

意見は聞きたくない。ファクトなら聞きたい。きちんとファクトを伝えた上での付け足しとしてならば、「こういう意見もある」と自分の意見を添えることもまあ許されるかもしれない。しかし、ファクトなしでの意見だけ、それもあたかも自分の意見こそが正しく異論を許さないとでも言いたげな唯我独尊な論調など犬も食わない。こういうことを大手を振ってやっていたのが、産業社会の時代のマスコミ・ジャーナリズムである。

新型コロナ禍で命脈を止められたのは、高齢で持病をもった感染者以上に、既得権にしがみついて驕り切った、既存のマスコミ・ジャーナリズムだった。横から目線を何より重視する今の生活者にとって、上から目線でオオカミ少年をやって脅しまくるレガシーメディアは、ガン付けでカツアゲしてくるチンピラ同然の社会的悪である。ウイルスの犠牲ではなく、社会的犠牲の多かったこの一年。それを無駄にしないためにも、マスコミ・ジャーナリズムの墓標こそ歴史を振り返った時の2020年のメルクマールとなるであろう。


(21/04/16)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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