偽りの味方





左翼政党やリベラルを自称する有識者たちは、二言目には「弱者」「被差別者」を持ち出し、いかに自分達がそういうマイノリティーを重視しているかのように主張する。しかし、そのワリには弱者であることを利用してよりおいしいバラ撒きに預かろうと思う一部の「活動家」以外からはほとんど支持されていない。それどころか、社会的に差別され、弱い立場にある中でも力強く生きてゆこうという人たちからは忌み嫌われる存在になっている。

それは彼等が語る「弱者」「被差別者」は、あくまでも自分の主張の正当性を誇示するための手段であり、その心の中にはある種の見下げた差別意識さえ潜んでいることが明確に伝わってきてしまうからだ。いかに「弱者の味方」「虐げられたものの味方」ヅラしたところで、その主張が「上から目線」のものだった瞬間に、語っている相手はその主張をしている人達が自分の本当の味方ではなく、単に利用されていることに気付いてしまう。

今の時代は、語り口や語る内容ではなく、どういう目線で語るかが、相手のアカウンタビリティを呼び出す一番のポイントになっている。それが見抜かれた瞬間、その主張はただ員数集めだけのオルグだったり、自分達の活動を正当化するための方便であることを見抜かれてしまうのだ。言葉より、心の時代になっている。しかし物事を理屈でしか捉えられない左翼やリベラルの人達は、その事実には全く気付いていない。

「ハンディキャップ」や「ガラスの天井」があった側も、大きく意識が変わってきている。かつての「運動」は、自分達の立場はどうせ変わらないのだから、声高に差別を叫んで相手を脅しあげることで、なにがしかの補償のバラ撒きに預かろうというものだった。確かに何事も金で解決できた高度成長期ならば、そういう「脅し甲斐」もあっただろう。だが今は時代が違う。無い袖は触れないとばかりに、けんもほろろの対応を食らうのが関の山だ。

かつてなら「被差別者」とカテゴライズされた左翼やリベラルの言う「弱者」の中にも、旧来の考え方とは違う、正しく自分の能力を評価して相応の待遇が得られる社会を求めている人達が増えている。情報社会になり、世の中の評価軸が体力から知力に変わった。それとともに自分達が自分の力で生きてゆけるインフラさえ整備されれば、その中では憐れみや同情は必要なく、ひたすらフェアな競争の場に立てることを求めている人達も多くなった。

「最も明るい視覚障碍者」という自称で、障害のある人達の立ち位置のパラダイムシフトに活躍している成澤さんと一緒に仕事をしたときに意気投合した「スティービー・ワンダー理論」というものがある。スティービー・ワンダーは、視覚障害があるし、味覚その他神経障害なども持っている障碍者である。しかし、彼がスーパースターになったのは、障害とは全く関係がない。誰よりも唄が上手く、素晴らしいシンガーソングライターだからだ。

大事なのはここである。スティービー・ワンダーに対する評価の中には、同情も憐れみも何もない。才能のある人は、障害の有無にかかわらずフラットに評価されてこそ、真の価値が評価される。才能のある人にとっては、障碍の有無などは食アレルギーより小さい問題である。自分の才能が正当に世の中から評価され賞賛され尊敬されることこそが重要である点を社会が認識すべきである。これがスティービー・ワンダー理論だ。

情報化が進んだことにより、相手が自分と同じ立ち位置なのかどうかは、極めて分かりやすくなった。というより、コミュニケーションメディアの進歩をしっかり受け止めて、「仲間からの言葉」として伝えられるかどうかを、受け手の側が臭いでかぎ分けてしまうといった方がいいかもしれない。「同情するなら金をくれ」は、まさに高度成長期の古いタイプ活動家の主張である。いまなら「同情するより評価をくれ」というところだろうか。

言葉だけの味方と、心からの味方は、メディアを通しても違いを見分けられるようになったのが、産業社会の時代と情報社会の時代の違いだ。豊かな社会になり、社会がヒエラルヒー構造からフラット構造に変化すると同時にこの情報メディアの変化が起こったため、コミュニケーションメディアを通して、まず「相手の目線」を見極めて関係性を構築するやり方は一気に普及した。

左翼やリベラルは、一度自分達の支持者が数%もいない絶滅危惧種になっていることをまず直視すべきだろう。少なくとも思想信条の自由はあるし、そういう考え方があってもいい。そういう人達を否定したり弾圧したりしてはならないのだ。しかし、支持者が少なくても自分達の居場所があるのは、そういう良心の多様性・思想信条の自由を認めている多数の人々のおかげであることをまず知るべきである。

次に、世の中は啓蒙的な理屈の時代から、共感的な心の時代に変化したことを知るべきである。「理解しない国民が悪い」では何も進まない。社会主義・共産主義を信奉するのもいいのだが、それがどうしたら理解されるか、その努力を行う必要がある。そのためには左翼運動の歴史をきちんと振り返り、そのどこに問題があったのか、それを現代に生かすにはどうしたらいいのかを考えなくてはならない。

ここでもすでに何回か論じたが、諸悪の根源は実質的に「共産党宣言」を書き、「資本論」をまとめたエンゲルスにある。エンゲルスは哲学者でも経済学者でもない、政治家・活動家であった。このためマルクスのユートピア論を換骨奪胎し、産業革命後の貧しい人々が虐げられていた時代、それらの救いのない人達の怒りを掬い上げることにオプティマイズした主張としてこれらの書籍にまとめてしまった。

しかし、元来のマルクスは違うのだ。産業革命後の時代に対し憂慮していたことは確かだろうが、その視線は遥か先を見通していた。ひもじさから今日のメシを奪い合う目先問題以上に、経済が発展しみんなが豊かになれるだけの経済力を持った社会においては、どのようなあり方が人類の理想なのかにまで思いを馳せていた。ここがマルクスが哲学者でありヴィジョナリストである由縁である。そしてその哲学は人類のあるべき姿に焦点を合わせていたので、現代にも充分通用する要素がある。

門外漢の私がサジェッションすることではないかもしれないが、エンゲルス・レーニン以降の政治的な共産主義インターナショナル的な思想を一切排除し、ピュアなマルクスの哲学を現代社会に生かしたらどういう見識になるのか。そろそろこれを一度きちんと構築した方がいい。ソ連や鉄のカーテンといった敗北の臭いしかしない過去の共産主義とは違う、豊かな情報社会ならではの共産主義のスキームを構築するのだ。本当はこれが必要だと思うのだが、それだけの知力のあるセンセイは、もう左翼やリベラルのアカデミズムにはいないのだろうな。オレがやるのか?


(21/05/07)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる