悪しき55年体制





1955(昭和30)年に、講和条約と日米安保条約に対する姿勢の違いから右派と左派に分裂していた日本社会党が再統一すると共に、戦後乱立していた保守系政党が集約された日本民主党と自由党が合併して自由民主党が誕生した。ここに「改憲・保守・安保護持」をモットーとする自民党が2/3の議席を、「護憲・革新・反安保」をモットーとする日本社会党が1/3の議席をそれぞれ国会で分け合う55年体制が成立した。

55年体制はこのように、政策が異なる二大政党制のように見えるものの、実態としては過半数を占める安定与党と、構造的に過半数をとれず政権の座に縁がない万年野党という非対称的な構造を持っていた。このため野党の社会党は政策で争うのではなく、自らの支持基盤である労働組合のロビイング政党として利権誘導を行い、なるべく自らの支持層に有利になるような采配を振るうことで自らの存在意義を示すようになった。

要は55年体制とは、バラ撒き体制、癒着体制なのである。政策で対立しているフリをしているものの、それはあくまでもスタンドプレイ。最初から筋書きができている関係性だったのだ。対立している緊張感を演出することで、バラ撒きを正当化すると同時に、ブラフをかけてより有利な条件を引き出すための道具にしたのであった。このように出来レースで落しどころは野党支持層に有利なバラ撒きというのが、55年体制の与野党対立だった。

このようなスキームの元で昭和30年代に構築された社会システムには、国民皆保険の健康保険制度や年金制度がある。これらは今となってはすべて破綻してしまい、大きな社会問題となっている。それはこの時代のような右肩上がりの高度成長が、永遠永劫続くことを前提とした制度設計になっているからだ。しかしこういう能天気な甘い見通しが成り立ってしまったのも、55年体制というバラ撒き基調の政治制度がもたらした弊害である。

短期的に見れば充分成り立っていたし、それが永久に続くだろうというのが、昭和30年時の空気だったことは間違いない。右肩上がりが未来永劫続く、当時はそういう幻想に包まれ、誰もがそれを信じていた時代であったことも確かだ。しかし当時すでに、リアルタイムでその構造的矛盾を指摘していた人もいた。将来のリスクを見越して制度設計するのではなく、一番甘い見通しをベースにしてしまったのは、55年体制ならではのお手盛り感だ。

そりゃそうだ。昭和30年代といえば戦後の貧しい暮らしの中からやっとテイク・オフし、豊かさを少しでも感じじられるところまで来て、最後には東京オリンピックが開催されて、世界の一流国の仲間入りが出来るに至った時期だ。いわば、芽が出て双葉が出て、枝や葉が伸び始めた時期である。このままどこまでもどんどん大きくなり、ジャックと豆の木ではないが、果ては月へも宇宙へも届くぐらい伸びて巨大になるんだと思ってしまっても仕方ないだろう。

私もまだ子供ではあったが、「無限な未来」に浮かれていた時代の空気は充分に感じられていた。しかし、木はおのずと最大限の大きさが決まっている。屋久島の縄文杉だって、1935mの九州最高峰宮之浦岳より高いワケではない。理性的に判断すれば、どこかに収束点があることは容易に想像できる。そして年金制度は、その時の新入社員が定年になった後の状況まで睨んで構築する必要があるので、少なくとも半世紀先のことまで見通せなくてはならない。

昭和30年代の半世紀前といえば、まだ明治時代である。その間には世界史的なパラダイムシフトもあったし、二度に渡る世界大戦もあった。半世紀というのは当時の時代感覚においてもそのぐらい長く、激変があるものだったはずである。当時少年だったぼくでも、半世紀前から残っているモノというのは、極めて貴重で歴史的な存在という感じで捉えていた。それがどうしてこれからの半世紀は、このまま右肩上がりの幸せな日々が続くと、当時戦争を体験した大人たちが思ってしまったのだろうか。

とにかく、時代は21世紀の情報社会に突入してしまった。いまはどう考えても産業社会の最後の高度成長の恩恵に浸っていた時代とは違う。にもかかわらず、半世紀以上前の幻想に捉われたままの人達がなんと多いことか。問題はここである。現実を直視し、世の中の構造が変わってしまったことを受け入れることだ。その上でそれをどう捉えどうして行きたいかという話ができる。半世紀前のスキームを今でも後生大事に振りかざしても何も始まらない。昭和を忘れられない人には、妄想ではなく現実を見つめて欲しいものだ。


(21/05/14)

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